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炉辺を囲むように。

015-1:「アウシュヴィッツに行きたい」について

(続)

 

第1章「アウシュヴィッツに行きたい」について

 

アウシュヴィッツという語の重み

 「アウシュヴィッツ」という名前とそこで起きたことを知らない人はいないだろう。しかしこれが現在のポーランドにあることを知らない人は意外に多いのである。今回、この旅を計画し、その目的を人に聞かれたときに「アウシュヴィッツに行きたいから」と答えると、ポーランドにあることを驚くような反応が多々見られた。

 なぜだろうか。ただの勉強不足だという無責任な批判はしないことにして、その理由を少し考えてみると、「ヒトラードイツ第三帝国」というイメージが大きすぎるのではないかと思えてきた。例えばアウシュヴィッツヒトラーユダヤ人とヒトラーの関係は往々にして語られるのに対して、ユダヤ人とポーランドアウシュヴィッツポーランドの関係性がそれ以上に語られることをあまり見かけることはない。いや語られているのだろうが、印象としてヒトラーがデカすぎるという話である。あえて脱線してゆくが、おそらく同様の理由からだろうが、イタリア・ムッソリーニファシズムに関するインパクトも大して大きくない。こちらもやはりドイツ・ヒトラーナチズムが絶対悪として巨大すぎるから、その相対的比較の中で、諸方面においてヒトラーの手本であったムッソリーニにもかかわらず、彼の影はどこか薄い。ヒトラーが主として思い出され、ムッソリーニは思い出されたとしても、どこか添え物的である。なぜだろう。

 筆者が考えるに、「ヒトラーとナチは絶対悪だ」とセカイが信じているからではないか。そのように見なさねばならないのだと世界にもそして僕にも思わしめるその最大の理由はおそらく、まず①当時世界一民主的とされたヴァイマル憲法下での、徹底的に合法的な政権獲得へのプロセス、そして②彼の人種政策とそれに付随して起こった悲惨な出来事、この二つの間にある巨大なギャップ、すなわち一見同一人物の所業とは思えないほどの対極的な位置の二つが背中合わせであった事実に対する素直な驚愕が、そしてそこから教訓を得ようとする謙虚な態度が、世界中の人々、否、少なくとも僕の中にあるからなのではないだろうか。

 そのような驚きと反省と共に我々が想起する悲惨な出来事の舞台こそ、この「アウシュヴィッツ/Auschwitz」である。したがって、このカタカナ/アルファベットの配列の中には、日本人にとってのカタカナ書きの「ヒロシマ」がそうであるように、人類の理性にあまねく訴えかける強烈なメッセージが込められている。

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▲PHOTO:入口の看板。上はポーランド語、下は英語である。尚、博物館内の展示は全てポーランド語・英語・ヘブライ語の3種類で書かれていた。かつてユダヤ人であることを罪に問われた「囚人」たちが強制的に連行されたこの場所は、今では博物館として、数多くの観光客を世界中から連れてきている。とはいえアウシュヴィッツ強制収容所単体での死亡者総数は未だに分かっていない。ニュルンベルク裁判(大日本帝国戦争犯罪を裁いた東京裁判ドイツ第三帝国版)では400万人としたが、1995年には150万人に改められている。諸説あるので断言は控える。

 

 ★旅するということ、そして友人Mのこと

 さて、アウシュヴィッツに行きたいと思うようになったのはいつからだろうか。そしてなぜだろうか。もともと歴史には興味が強く、高校世界史にはとりわけ浪人期に没頭した。APUと併願した学部の多くは文学部史学科であったほどであったし、当時もそして今でも「歴史を教える・学生と共に歴史を考えていく」ということは憧れの一つである。したがって「機会があれば行きたい」という思いは常にあったのだと思う。母親が在宅で、小中の社会科学習参考書関係の仕事をしている姿を見てきたのも大きいだろう。

 僕は青春18切符を使って帰省をする度に、途中下車して観光をしている。そんなことを過去3度してきたが、その際の行き先のほとんどが「歴史的価値のある場所」として観光スポット化しているモノ・場所が目当てだったりする。「美味しい食事」とか「人との出会い」とか「快適な旅」とか、そういったものは二の次。自分の足で坂をのぼり、風景を目に焼き付け、自己満足的に思索を巡らせることが、何よりも大きな旅の醍醐味となっている。だから概して「リフレッシュのための、現実逃避の旅」というのを追求していない。だからひとり旅であっても気にならない。寂しいという思いもない。だからむしろ、一人旅の方が気が楽なのである。もし複数人で旅をするにせよ、僕はバカンスをしたいわけではないのだから、何か考え事をし始めて黙りこくったとしてその沈黙ですら会話として成立するかのような、そのような相手でないと気を使ってしまって仕方がない。映画を映画館で観終わったあと、あの余韻を壊したくなくて安易に「面白かったね」と言いたくない、みたいな感覚を共有できている人間でないとなぁと、そのように思っている。

 

 そして僕はアウシュヴィッツに「親友M」と二人で行った。行く前からも、そして実際に行ってみても、それは間違いではなかったと思っている。「アウシュヴィッツを中心に、ポーランドを訪れたい」という餌のついた釣り針に、彼なら食いつくだろうという自信もそもそもあった。それにもし一人で行ったとして帰国後それについていくら言葉と写真を並べても、いくら親友に対してであっても、きっとあそこでの感覚は共有できないだろうという確信があった。そして実際にその予感は正しかった。こうやって文字に起こすのも、今頃ようやく整理がついたという感じがあるからだし、これを読んでアウシュヴィッツの一体何が分かるというのだろう。やはり一緒に行って、正解だったのだと思う。

 そんなMのことを少々書かせてもらおう。Mとは長年通う英会話教室での仲間であり、中学生の頃から日本の英語教育についてや9.11陰謀論など、そんな話をしてきた仲である。彼はスターウォーズに造詣が深く、それに僕はハリーポッターで対抗した。どうでもいいこと・下らないことを書き連ねる学級新聞『The Quibblers』を、中学三年のときに、他の二人の友人と共同執筆したりと、まあ要するに馬の合う奴なのである。高校卒業後は自身の夢に向かうべく、アルバイトをしながらその道を目指して歩んでいる。尊敬できる人間の一人である。

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▲PHOTO:博物館の入口前には長蛇の列が。他の方々、とりわけヨーロッパの方々は、どのような動機でここを訪れるのだろう。ちなみにドイツの芸術系の学校に通う学生たちは、定期的に無償で修復活動に来たりするのだという。

 

★博物館への道のりのこと

 「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所」はUNESCO世界文化遺産に登録されている(1979年)。ノルマンディー上陸作戦が行われた所謂「D day」は1944年だが、ヒトラーの自殺によってドイツが降伏するのは1945年であるため、日本と同様にポーランドにおいても今年は「大戦終結70年」となる。時事通信によると、アウシュヴィッツ博物館側が今年の8月「8日までに、今年1~7月の来場者が同期間としては初めて100万人を超えたと発表した。年間来場者が過去最高の153万人に達した昨年は、100万人を突破したのは8月末だった。今年の年間来場者は昨年を1割以上上回る見通し」(2015/08/08 時事ドットコム:来場者、大幅増の見通し=解放70年のアウシュビッツ−ポーランド [2015/10/10閲覧])だと伝えた。

 そもそも「アウシュヴィッツ」はポーランド南西部に位置しており、首都ワルシャワからは遠い。すぐ南に行けば、チェコやスロヴァキアとの国境線に辿り着く。言ってしまえば、そんな長閑な田舎町の一画に、広大な負の遺産は横たわっているのである。今回僕らは、クラクフ(Krakōw)という17世紀に王都がワルシャワに移るまで王都だったポーランド南部の街から、電車に乗って約1時間半かけたところにあるオシフィエンチム(Oswiecim)という駅まで向かい、そこから約20分ほど歩いて、現地へと向かった。この電車の設備がとてもきれいで、しかも安い(一時間半の道のりに対して、確か日本円で2~300円くらいの電車賃だったと思う)。日本人観光客一組が同乗している様子も伺えた。

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▲PHOTO:隣に座るお母さんと2人の息子。オシフィエンチム駅まで一緒なのかなと思っていたが、それより手前の駅で下車をした。車窓には丘陵地帯と畑の風景が広がる。僕の大好きな景色である。

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▲PHOTO:オシフィエンチム駅からの道には、廃線となった線路が今でも敷かれたままであった。もしかしたら「囚人」を「載せた」列車がこの上を通ったのかもしれない。

 博物館化されている旧第一収容所(旧基幹収容所)と、自由に出入りができる旧第二収容所(通称ビルケナウ)の間には約2kmほどの距離があるが無料のシャトルバスが随時運行されている。入場料自体は無料なのであるが、しかし事実上の「入場制限をかける」という意味合いから、10時-15時の間に入場する場合は有料のガイドツアー(一か月前から予約しとけば確実らしい)に参加することが入場の条件となっている。また入口前にある列に並ぶ前に、さらなる入場制限として整理券を配布している場合があるため、出来る限り多くの情報を事前に持っておくこと、そして余裕を持って現地につくことが重要である。ちなみに10時より前の朝の時間帯、そして閉館までの15時-19時の時間帯はガイドツアーに参加せずとも入場が可能である。

 馬鹿なことに、我々は予約していないのにも関わらず「当日券買えるやろ」と高を括っていた。しかし予約していたクラクフのホステルにチェックインした夜、宿の共有スペースで出会ったマレーシア人学生3人組に「予約してなかったらきっと入れないから、それなら15時以降に行った方が絶対良い!」と忠告されることとなる(ここでのやりとりは第2章にて述べる)。Mとの相談の末、翌々日の朝から当日券を求めて行く予定だったのを、翌日の夕方のアウシュヴィッツ入館を狙って昼頃にクラクフを出発するというスケジュールに変更することにしたのである。

 こうして無事着いたのだが、前述の整理券の存在を知らなかったこともあり、「これではアウシュヴィッツもビルケナウの両方とも、時間的に満足に見られないのではないか」という不安が現実味を帯び始める。というわけで、シャトルバスに飛び乗って、先にビルケナウの方から見て回ることにした。この時点で16時過ぎ。閉館まであと3時間を切っていた。ビルケナウの敷地が広大であることを知っていたから、最悪の場合アウシュヴィッツは諦めることを覚悟した上での決断だった。そしてじっくり2時間以上かけてビルケナウを見て回ったのち、アウシュヴィッツに戻ってきたのが18時50分。もう入場口の前に列もないし、人気も日中と比べればほとんどない。しかし入口の扉は空いている。そこでダメもとで「Finished?」と聞いてみた。すると、係員がこちらに手招きをしているではないか。手荷物検査ののち、無事に入ることができたのである。どうやら19時が入場終了で、20時までに退場すれば良かったようなのだ。そんな細かい情報まで網羅していない、Mの持っていた「地球の歩き方」に悪態をつきながら、しかし高揚した気持ちを抑えられぬまま旧第一収容所に足を踏み入れたのである。帰りの電車の時間から逆算して、20時ぎりぎりまでいることこそ叶わなかったが、何だかんだその日のアウシュヴィッツ到着時間から考えられる最善の時間配分・時間効率で見ることができたのである。

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▲PHOTO:「囚人」たちを「載せた」列車はこの引き込み線の上を走り、その先の門をくぐって中に入り、彼らを降ろした。その門を二度くぐることは無いという意味から、それは「死の門」と名付けられたという。

 さて、強制絶滅収容所というおどろおどろしいその名称、そこから何が想起されるだろう。スターリンという男は「一人の死は悲劇だが、数多の死は統計でしかない」と語ったとされるが、実際に何万人のユダヤ人がそこに収容され、死に追いやられたという話を聞いただけでは、全く異なる時間・空間に生きる私にとって、それはやはり抽象的すぎていまいち訴えかけてくるものが弱い。具体的に一人ひとりの一生をなぞることでしか、その直視すべき(とされる)「現実」というものの輪郭を濃くすることはできないのではないか。だから我々は「現地に赴くこと、そして生き証人の話を聞くこと」を是とするのである。しかし百聞は一見に如かずとは云うものの、いかなる手段をとったとしても完全な他者理解には至らないのもまた事実だ。昨年の文化人類学の講義でも学んだように、「完全な理解なんてできないという諦感を頭の片隅におくこと」、これがエスノセントリックな傲慢さを回避し、謙虚であるための次善の方法の前提であると、僕は思っている。そしてそのことを実際に、このアウシュヴィッツ-ビルケナウにて身を以て体感することとなる。

 

★そこで感じたこと

 足を踏み入れてから暫くして感じたのは、そこにあるものの全てが「至って普通だな」という思いである。もちろんその普通とは私の主観的な基準によるものであるという批判は免れないが、とは言えしかし、石ころや草花、蜂や鳥たち、雲や夕焼け空など、目に映るものが「ことごとく異質なもの」ではなかったのである。同じ地球なのだな、ということをまず確認した。

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▲PHOTO:雲は彼方にもくもくとそびえ立ち、蜂は蜜を求めてぶんぶん飛ぶ。それはそれは美しく、「アウシュヴィッツ」との激しいギャップの中にいた僕は、それらにカメラを向けざるを得なかった。

 しかしだからこそ、バラックや焼却室の残骸から迫ってくるその記憶たちを、私は事実として受け止めきることができなかった。頭の中は「何故なのだ」という疑問符で溢れかえり、思考がそこで無限に繰り返されるばかりであった。『チャーリーとチョコレート工場』のように、見るからにその全てが「異世界」のようなものであれば、僕はそれをそのものとして受容しただろうに、そこではそこにあったほとんどが普通であった。だからこそ、そこにあった一部の「事実」としてのアウシュヴィッツを、僕は消化できなかったのだ。そのギャップこそが理解を妨げたのである。

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▲PHOTO:「大量の囚人」をビルケナウまで「載せてきた貨車」。多言語ガイドツアーが行われているが、英語のそれが近くにいたりすると聞き耳を立てて説明を聴いた。

 そこで見た夕焼け空を、僕と同じように美しいと思ったであろう収容者とナチスと私の間に、本当は何ら隔たりなどないはずなのに、何故だかそこには越えがたい巨大な壁があったのである。「こんなにも『普通』の場所で起きたその『異常』って何なのだ」という思いに圧倒された私は、もちろんそこで悲劇が起きたことを確かに「知っていた」のだが、そこで悲劇が起きたことを「知らなかった」のである。リアルへの肉薄など、百年早い。リアルはそこにあるはずなのに、それを理解しようと赴いたはずのに、それは本当にそこにあるのか定かではないように見えた。だから僕はそれを目に焼き付けることしかできなかった。写真の方が多くを語れるのではないかと思うかのような圧倒的な敗北感に、私はぶち当たったのである。

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 全面戦争という性質を帯びた第一次、第二次大戦。やらなきゃやられるという強迫観念化していたであろうそのロジックに支えられて、世界各地は修羅場と化していった。しかしアウシュヴィッツでは明確な権力関係が、すなわち支配する側と支配される側という最初から逆転し難い壁があったはずだ。何故彼らはそれを粛々とこなすことができたのだろう。なぜ。

 先に述べた敗北感の他に、今回の訪問で辛うじて収穫できたものをあえて挙げるとするならば、「ナチスは絶対悪である」という命題に対しての私の構え方が良い意味で等身大になったということだろう。借り物ではない、自分の言葉で「あれは駄目だね」と言えるようになったという感覚があったのである。具体的には、支配する側のその「狂気」を支えたロジックとは何か、それに対して躊躇は生まれなかったのだろうかと、ヒトラー並びにナチスが掲げた世界観に対しての「へーそうだったんだな」という今までの受容に加えて、新たに「何故なのか」という切実な疑問が素朴な形で、自身の内側から涌き出てきたのである。

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▲PHOTO:(上)CANADAという名の「囚人」の洗浄室の屋根。何十人もの「囚人」たちを裸にさせ、まず冷水を浴びせたと思えば、次に大量の熱湯をかけるなどの虐待は絶えなかったという。/(下)亡くなった「囚人」たちの写真。彼らにも家族があり、人生があり、喜びがあったのだ。写真を見るとそれを実感する。やはり数字では想像力を掻き立てられない。

 ところで怖かったエピソードがひとつある。私はミラーレス一眼を持っていっていたのだが、友人Mは道中iPhoneで写真を撮っていた。それはアウシュヴィッツでも例外ではなかった。降伏した後、戦争犯罪として訴追されることを想定したナチスが自ら破壊した遺体焼却用の家屋が、ビルケナウの奥の方にあるのだが、その瓦礫の写真を撮った瞬間、彼のiPhoneに着信が入ったのである。それはすぐ切れたのだが、こともあろうに非通知設定。尋常ではない鳥肌が立ってしまった。もしそうだとして、彼が意図してその日に着たというその白黒のストライプが、それを引き寄せたのかどうかは分からない。帰りの電車でMが述懐していたが、ビルケナウを最後出たとき、彼についてきていたかもしれないそれに、外から見たそこを見せるために、「出たよ」と心の中で言いながらしばらくフェンスの中を見たという。きっと何かの偶然なのだろう。しかし場所が場所だけに、笑うことはできない現象だった。

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▲PHOTO:破壊された焼却室の瓦礫。煉瓦は煉瓦のはずなのに、、、

 

 

★「平和」を志向するということ

 広島、呉、長崎、沖縄、靖国。今まで幾つか、戦争と関係の深い場所に足を運んだ。家族旅行としていったものもあるが、きっかけはどうあれ関心がある僕にとってそれは能動的な行為として分類できる。だから「足を運んだ」と表現した。今思い返せば、それは「日本人だから」というのが動機が原動力であった。「<僕>だから」ではない。絶対的個としてではなく相対的個として、「日本人」という目には見えないけれども<僕>というものを規定しているのだと信じているそれが、そこに関心を向かわせたのである。それが「国民意識」というものであるだろうし、それ自体には右も左もない思っている。イデオロギーはその上部の話だと僕は思っている。

 もちろんそのような「国民意識」は社会の中で後天的に作られた意識であるだろうが、僕が僕であるということから逃れられないのと同様に、僕は「日本人」であるということから離れられない。これは国籍の話ではない。自分はどこの国の人間だと自認しているかの話である。だからこそ日本社会の中にどっぷりと浸かって生きてきた人間が、言語という翼を手にしたくらいで、「国とかそういう堅いくくりは置いておいてさ」となっているのを見ると、「その翼は蝋でできてるからね、イカロスと同じ轍は踏むなよ」と言ってやりたくなる。以前は「〇〇人という括りとは関係なしに、一個人として接することができること」がAPUの良い部分だと思っていたけれど、今では、「日本人」であることを解体し続けて何に辿り着くのか、何を目指しているのかと昔の自分に問うてやりたい。

 眼前にしっかりと大きな差異はあるのだ。僕が日本人で、彼が彼女が外国人であるということから離れられない。その事実からスタートすること、これが何より自分にも他者にも謙虚な姿勢ではないだろうか。その上で違いを楽しんだり、共通点を見出し合ったりすることが肝要ではないだろうか。この大学に来て何を学んだかと問われたら、私は「何でもかんでもボーダーレスにすること、同じものと見なすことが正しいとも限らないという気づきだ」と答えたい。

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▲PHOTO:ビルケナウから戻り、アウシュヴィッツに滑り込む。門には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」とのドイツ語。ARBEITの「B」の下部の膨らみが上よりも小さかったのは、この標語とアーチを作らされた「囚人」たちのささやかな抵抗だったとの説があるという。入場終了直前だったこともあり、もうほとんどの客はおらず、静かに歩くことができた。

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▲PHOTO:二重三重の電気柵が張り巡らされている。「鳥なら飛んでいけるのに」とMがつぶやいていた。

 

 

★勉強するということ

 さて自己意識や国民意識や国籍といったアイデンティティに関しての理解はどうあれ、そのように「僕」というよく分からない不安定な存在を成立させている様々な要素に自覚的になるということ、社会的な自らの座標を見極めること、そのプロセスが「勉強する」ということであると私は思っている。社会的制約に泣き寝入りするのではなく、「曇りなき眼」(宮崎駿もののけ姫』)を持とうとジタバタ足掻き、それで物事を「見定め、決める」ということ、それが「勉強」なのではないだろうか。もちろんその先にある、それらから脱却するかしないかなどの問いに対して、どのように答えるかは個人の自由だ。しかし私は思う。このような「勉強」のないままになされる、国際化(という名の〇〇化)とかグローバル化(という名の〇〇化)とか英語化(という名の〇〇化)とか、自己成長とか人材育成とか学生活動とか、もう全部それは「わたしの勉強」にはなりえないのではないかと。

 APUというハードは15年前に、そしてソフトはこの15年で醸成されてきた。それはきっと当時の関係者の「夢」の結実だ。でも僕はそのような「誰かの夢」のために勉強をしたくない。高い学費と引き換えに、軽薄な美辞麗句を並べ立てていくだけの、そんな「素敵な人材」に私はなりたくない。僕は「わたしの勉強」をしたい、そう思う。僕なりの『雨ニモ負ケズ』を今度このブログで書いてみるのもいい。

 

 例えば人は、殺してはいけない、戦争はいけない、平和がいい、困っている人は救うべきだと声高に叫ぶ。それを聞くたびに、本当にあなたの言葉なのか、と私は問いたくなる。環境破壊はいけない、森と海は守らなければいけない、と言う。なぜそう考えるのか、あなたは「勉強」をした上で語るのか、と私は問いたいのだ。大学生でなくともいい。「勉強」は生涯どこででもすることができる。点数を取ること、成績を取ること、ひいては大学にいること、進学することが「勉強」ではないのだから。自戒をこめて、私は「勉強するということ」についての姿勢をここに記しておくことにする。

 アウシュヴィッツに行って良かったかと問われれば、「良かった」と返すだろう。しかしなぜかと問われれば、「良かったから」というトートロジーで答えるしかない(この言葉が、もうすでに別の人の受け売りなのは否めないのだが)。それは偏に、他者と共有可能な一般的な経験ではなく、ある意味では「私」というローカルの文脈の中での個別的な経験だからであって、他者と簡単に共有できるものではない。つまりは「勉強」だったのである。だからすぐ言葉にすることはできなかったし、実際に2ヶ月という月日が経った今、こうして「辛うじて理解した」と言えなくもないことを、ブログというプラットフォームに載せることができている。これがまた一年後、五年後には、少しずつ変わっていくのだろう。そのときはまた、機会があれば文字におこそうと思う。

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▲PHOTO:ガス室。壁が冷たかった。ここで「囚人たち」はチクロンBなどの毒物によって殺害された。「囚人たち」は灰として煙突を通ってようやく自由を手にするのだという皮肉もあったほどである。

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▲PHOTO:バラックと窓と自分。ここに来たことの証に写す。

 

 

 

【注釈】

 さて私はここまで基本的に、収容された「ユダヤ人」たちのことを、意図して「囚人」と表してきた。違和感を覚えてほしかったからだ。罪を犯した罰として、もしくは裁判を控えて収監される者を基本的に「prisoner」というが、博物館での展示において英語での表現が一様に「prisoner」一単語だけであったのを見て、僕は日本語で表現する際の中立・曖昧志向を、改めて思い知ったのである。「ユダヤ人」という比較的に相対的・客観的な観点からの表現は、まるで神のように上から見下ろし「あれは〇〇人、これは〇〇人、それは〇〇人」と名付けたような呼称である。それに対して「囚人」という表現は、その二文字を見ることのみによって、彼らを「囚人」と呼ぶ「看守」という新たな登場人物と、看守の「正義」と囚人の「罪」という背負っているモノさえも想起させる。だからこそ、僕は現地でprisonerという表現を見たとき、「何でprisonerなんだよ!本当は罪ないんだからさ」と思わされた。その違和感は、ナチス視点への違和感である。彼らを「囚人」と呼ぶその看守の視点に対する違和感であった。僕はその非中立的な表現によって、改めてこの施設の凄惨さを見たのである。しかしもしかしたらこれは英語圏の人間が見たら違和感を覚えないのかもしれない。日本語話者でも思わないのかもしれない。僕なりの解釈かも知れない。しかし僕がそこで感じたことを、それを読者の方にも少しでも味わってもらえたらと思って、意図的に「囚人」と表現してみた次第である。

 

 

(第1章了)

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(続)