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炉辺を囲むように。

015-3:「ヨーロッパの脇役的な国に行きたい」について

(続)

 

第3章「ヨーロッパの脇役的な国に行きたい」について

★「イメージの確認と消費」としての観光

 自分で書いておきながら、「ヨーロッパの脇役的な国」というのは非常に失礼極まりない表現であることは重々自覚している。しかしながら英国人講師による英会話教室(13年)とサッカー(7年)を通して、世界の国々というものを知るようになった私にとって、ヨーロッパの国々の中でも、イギリス・オランダ・ドイツ・フランス・スペイン・ポルトガル・イタリアといった国々に「主役どころ」のイメージが定着していったのは、至って自然のことであった。そしてそのステレオタイプは、世界情勢についての(ある種のバイアスがかかった)ニュースを見たり、中高での勉強をこなすにつれ、ぐんぐん強化されてゆくこととなる。とりわけ、7歳(小1)から9.11同時多発テロとその後の報復戦争をテレビ等を通して目撃したことは、「世界の主役は誰か」というものを潜在的に植え付けられたのかもしれないという疑念を今日抱くほどに、自分への影響が大きかったのだろうと思う。したがって換言すれば、ポーランドのような僕にとっての「脇役的な国」についてのイメージは、脇役的であるというイメージ以外にさほどないということになる。

 観光地を巡るという、典型的な「観光」という行為について、僕はそれを「ステレオタイプを確認していく作業」だと解釈している。近年のメディアの発達は著しく、テレビであれネットであれ、それらを通して我々は視覚的な情報をこれでもかと大量に浴びている。鹿苑寺金閣に初めて行ったときの、あの感動の薄さはとても印象的だった。金閣そのものよりも「薄っ」と思った感情の方が、記憶には鮮明なのである。教科書にも、そしてガイドブックにも大きく載っているからなのだろう。しかし「うぉ!」と思わされたものだって勿論ある。ロンドンのビック・ベンがそれであった。ヒースロー空港には1日目の昼頃に到着し、翌日は大英博物館に丸1日かけたため、それを拝んだのは3日目だった。それの時計の部分がトラファルガー・スクウェアの先に少し見え、そちらへ歩いていった先の建物の角を曲がった途端、ドドーンとそびえていたあの塔を目の当たりにした。僕はしばらく、「うわー、本当にロンドンに来てたんだ」と感慨にどっぷり浸ったのである。

 私の専門は、観光学でもホスピタリティ・マネジメントでもないので詳しいことは全く分からない。しかし「〇〇に行きたいと思ってガイドのアドバイスに従って実際に行き、効率よく巡って、そこを背景に写真を撮って、ちょっとお土産を買って帰る」という形態の観光はとってもラクだと思うし、そんでもって全く面白くないとも思う。だから私はツアーへの参加は好まない。でもだからといって行き当たりばったりで楽しめるほど、ポーランド語やポーランド事情に明るいわけでもない。だから仕方がない。事前に勉強しておこう、情報を抑えとこう、〇〇がおススメなんだな、とやっておくことは最低限必要なことなのだ。そうじゃないととても楽しめないだろう。だからその準備の過程で、ステレオタイプなその土地のイメージが付いてしまうのは避けられないし、そのイメージ(≒期待)に沿っていたか否かでその旅行の良し悪しが決まってしまうのも避けられない。

 でもそれって何だかつまらない。だから確かに傲慢だけど、期待に応えてほしいと思う一方で裏切られたくなる。多少のハプニングは起ってほしいし、それを切り抜けてみたい。サバイバルをしたいなんて思ってしまう。思いがけない出会いや発見があって欲しいと思う。だから多少の不便さや孤独さを求めるんだろう。非合理性の塊だ。だから青春18切符で帰省するとなれば、時間をかけて観光をして、カラオケオールで夜を明かしたりと、経済的に非合理的なことをやったんだと思う。だからポーランドみたいな、言葉も通じない、治安も良いのかわからない、経済的に豊かというわけでもない、飯が美味いのかも分からない、そんなよく分からない「ミステリアス」な国を旅してみたいと思ったんだと思う。エスノセントリズムの塊のような動機である(そんな人間がTAをやっているのが、そのエスノセントリズムからの脱却を試みてきた文化人類学という講義である)。

 旅ということに対する考えは上に書いた感じだが、では具体的に国を選ぶ上でなぜ「脇役」だったのかと言うと、やはりロンドンに行ったとき、「あ、なんか日本に似ている」と思った感覚が強かったことが大きいだろう。あの、人のせかせか感とか(清家先生は違うというかもしれない)、なんだかあの漂っている余裕というか、「おれたち、世界のイギリスだけど、何か?」みたいな空気感が、予想通りだったというか、一周回ってつまらなく感じたというか、まあそんな感じで、西ヨーロッパの「主役」たちのとこへはしばらく行かなくていいや、と手前勝手に思ったのである。だからこそ旧共産圏というレッテルは大きかったし、EUなのにユーロは採用していないという実情も面白かったし、あんまりAPU生も行かないし(これ大事!)、まあなんだかんだ一番はアウシュヴィッツがあったからだけども、そんな訳でポーランドを選んだ。

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▲PHOTO:ワルシャワの「クラクフ郊外通り」を北上してゆくとこの広場に出る。写り込んではいないが右手には旧王宮がある。中央の棟には、1596年にポーランド・リトアニア共和国の首都をクラクフからワルシャワへ移したジグムント3世(1566-1632)の像。写真奥に見える背の高い切妻屋根的な建物は聖ヨハネ大聖堂。そしてそのさらに奥には世界文化遺産ワルシャワ歴史地区」の中心部がある。

 

★「イメージが共有されていない」ということ

 おかげでポーランドに行くと誰かに伝えると、「何でいくの?何があるの?」と聞かれることが非常に多かった。これは嬉しいものでもあり、悲しいものでもあった。嬉しいというのは「あ、ポーランドのおもしろさ、この人には分かんなくて俺には分かるんだ」というちっぽけな優越感に浸れるから。そして悲しさの理由には、「え、アウシュヴィッツってポーランドにあるんだ、知らなかった」という反応が時たまあったから。まあそういった感じである。しかし確かにポーランドに何があるの?という問いには困る。というのも、視覚的に共有されているイメージがほとんどないのである。

 たとえば「お題として出された国のことを、文字や国旗を使わずに、絵に描いて、相手に伝えてください!」と言われたときに、ポーランドを伝えられる自信があまりない。アメリカなら「自由の女神」、イギリスなら「ビック・ベンとロンドン・ブリッジ」、フランスなら「エッフェル塔と凱旋門」、イタリア(ローマ)なら「コロッセオトレヴィの泉」、スペインなら「サグラダ・ファミリアアルハンブラ宮殿」、ドイツなら「ケルン大聖堂ブランデンブルク門とベルリンの壁」、デンマークなら「人魚姫の像」、オランダなら「風車とチューリップ」、ロシアなら「クレムリン赤の広場」。まあ挙げていけば切りがないが、写真として見せられれば国当てクイズくらいできそうなものである。しかしポーランドは、難しい。盾と剣を持った人魚がワルシャワのシンボル、クラクフからワルシャワに遷都したジグムント三世の像(ワルシャワ)、ヴァヴェル城(クラクフ)、ヴィスワ川、、、これといった共通のランドマークがあるわけではない。アウシュヴィッツだって先に書いたように、ポーランドの遺産というよりもナチスドイツの印象の方が強い。民族衣装だって、一般的な日本人からしたらあの辺りの中央・東ヨーロッパのそれぞれのものの違いを明確に把握できる人はいないだろう。一般のヨーロッパ人からしたって、チャイナ・ドレスとアオザイチマチョゴリと振袖が一緒に並べられていたら、きちんと答えられるのかどうか定かではない。

 さてそのような訳だから、それは或る意味で僕にとっては都合が良かったのである。というのも、限られた旅程の中で偏ったポーランド像が脳内で構築されてゆくことは避けられないからこそ、だからこそ、そのステレオタイプは僕が自分のためだけにゼロから構築できるものとしての可能性と価値を秘めていたからである。誰かがシェアする写真や言葉の中には、その人個人の政治的立場や様々な価値観が潜んでいる(もちろん「何も考えていない」「何も知らない」というとんちんかんな立場や価値観もありうるが)。とにかくそれらがその人の言葉を紡いでいき、カメラを構える被写体を決めていく。

 したがって、ポーランドという「共有されたイメージ」が薄い国についてのそれらのイメージに、僕は何ら左右されるということがないという意味において、僕はかぎりなく「自由」だった。当たり前だが僕が一からイメージを構築していくことになるのだから、それはもちろん僕の五感と思考を通して形作られるのであって、バイアスがかかっていない訳がなく、それがステレオタイプとなることは免れない。僕がこうしてブログを書き、それを誰かが読むことによって、その人にとっての「ポーランド像」がその人の脳内で形成されることは不可避である。だからそういう意味において、この「自由」とは僕だけのものであり、友人Mのものでもない。僕だけの、「自由」である。

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▲PHOTO:カトリック司祭だったにも関わらず、天動説という社会的に強固なイメージを科学によって払拭し、地動説を唱えたコペルニクス(1473-1543)。この像はワルシャワにあるが、彼はクラクフ大学(旧ヤゲヴォ大学)で学んだ。「彼のその精神は、自由だったのだろうか」と、この写真を撮りながら思った。

 

★期待のないところに「思いがけないこと」はあるのかということ

 「今回の旅に何か特別な期待をしなかった」と言ったら嘘になる。ワクワクだってしたし、ドキドキだってした。しかしながら何かロンドンに行く時とは勝手が違ったのである。まあまず初海外の友人Mが居たというのが、前回とは違う点である。彼はそういうこともあって非常に楽しみにしており、海外プチ経験者としていくつかアドバイスをするなどをしていた手前、どこか冷静で場慣れしている感じを醸そうと気張っていたのかもしれない。いや想像でしかない。とにかくワクワクの仕方が以前とは異なったのである。その理由について、考えてみよう。

 まずは先に述べたように、イギリス出身の英会話講師から10年英語を習い(その後の3年間は豪州人講師)、『ハリー・ポッター』にのめり込みまくっていた自分にとってのイギリスに対する思い入れと、ちょっとした受験世界史の知識とアウシュヴィッツのイメージしかない自分にとってのポーランドへのそれが全く異質なもの同士であったことは、まず確認しておかなければならない。例えるとするなら、ロンドンに行くときはビッグ・ベンの塗り絵本が頭の中に浮かんでいて、「どんな色を塗ろうかな」と想像を巡らせる余裕はあったけれども、今回はただでさえこれと言った明確なイメージがあるわけではないポーランドだったから、無地の自由帳を開いて、2Bの鉛筆を握って「で、まずは何をデッサンしようか」と構えているような、そんな状態だった。つまりはそのようなワクワクの性質の違いがあったのではないだろうか。

 だから帰国後にこうして振り返ってみると、良くも悪くも「思いがけない体験」というものはさほど無かったように思う。思いがけないという概念は、最初の期待値としてのハードルとの比較の中で生まれてくるものだ。そもそものハードルが、すなわちイメージが強くなかったからこそ、裏切られたという思いも期待通りという思いも薄かったのである。いやそうは言っても、「美味しい」「綺麗」「疲れた」「キツい」「どこに行ったら良いんだ」「日本よりどうだ」「ロンドンよりどうだ」といった、その時々には多彩な感情が湧いたのは事実だ。でもそれはやはりステレオタイプとの比較の中には無くて、「何かを事前に期待して、それと照らし合わせて、その予想の範疇を越えていたから、これは思いがけないなぁ」というような心の中の動きは感じられなかったように思うのである。

 というよりもむしろ、期待が無かったからこそ、そこには新鮮な感情の発露があったように思う。ピロシキに影響を受けたとされる餃子型料理・ピエロギ(Pierogi)や、発酵させたライ麦をベースに作る郷土スープのジュレック(Zurek)を食べたときの、あの心の底からの「うんめぇえええ」などは正にそんな感じだったように思う。ロンドンに行ったときは、その前から散々「イギリス料理は美味しくない」ということを聞いていたから、実際にフィッシュ・アンド・チップスを食べてみたときには、そのイメージとの比較の間でしか食事を楽しむことしかできなかった。ステレオタイプとは本当に厄介なものなのだなぁと、今回の旅では食事中にも痛感したのであった。

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▲PHOTO:(上)旅の中で三回くらい食べた「ピエロギ」。結局ワルシャワ旧市街で食べた一番最初のものが一番おいしかったように思う。/(中)クラクフへの電車を待ちつつ、ワルシャワ中央駅内の小ぢんまりしたレストランで食べたスープ「ジュレック」。/(下)ロディというおいしいアイス。独特の風味があり、日本で味わうことができるソフトクリームとは大きく異なる。背景はワルシャワ旧市街の広場。

 

★人との出会いは一番「思いがけない」ということ

 という訳で今回の旅は、有名な『地球の歩き方』や英語で書かれた『Lonely Planet』などを参考に、空白の無地のページに少しずつ自分自身で輪郭を描きながら、そこに自分で彩色を施していくというかたちで進んでゆく。時に友人Mと意見を交換し、互いの見解にあーだこーだと言い合った時間にそれは促進された。これはひとり旅のときにはなかなか味わえない経験で、時にふたり旅は面倒臭いなぁと思うときもそりゃぁ確かにあったけども(笑)、彼に大いに触発されながら、そして負けじと僕は「私だけのポーランド」というキャンバスを完成させていった。

 さて、「思いがけない」も何も、その思いの前提にある期待やイメージすらなかったからこそ、感情は常に新鮮さを帯びていたということを先述したけれども、一番どばばばぁっと圧倒されて、そして印象に残っているのは、最後の最後に月並みで申し訳ないのだけれども、やはり「人との出会い」であった。ワルシャワに到着するなり色んな人に助けられたというのも前章で述べたけれども、やはり英語の通じない国に行っただけあって、積極的に様々な人とのコミュニケーションを図らないことには何事もスムーズに進まなかったことだろう。そしてきっと彼ら無しでは、僕のそして我々の旅はきっともっと彩りのくすんだものになっていただろう。

 最も印象に残っている二人挙げよう。ワルシャワのヴィスワ河畔(旧市街の裏手)にて、無料の川渡し船の操業を仕事にしているミレックさん、そして某国立大学4年生時点で休学をして様々な国を巡りながらいるところ、クラクフのホステルで出会ったトモヤさん。このお二方だ。

 

 ミレック氏との出会いは疑念から始まった。旧市街を歩いてきた我々は、ヴィスワ川を臨むベンチで座って休憩をしていた。するとランニングウェアを着て、サングラスをかけ、ランニング用のリュックを背負いながら河川敷を走っていた長身の男が、急に我々の前を横切るのをやめて、こちらにやってくるではないか。到着した日こそ多くの人に助けられたけど、同じだけの胡散臭い人たちに話しかけられていて、実際に私の方はいささか神経過敏だったのである。

 幾つか例を挙げよう。空港での白タクの太っちょ運ちゃんが近づいてきて「Taxi?」って行ってきたのを「Nie」と言って突き返したり、教会前での物乞いを「神を信じてないからここで断ったとしても<良心>は痛まないんだよなあ」と思いながらかわしたり、旧市街にてレアものらしき切手を押し売りしてくる爺さんに「わぁスターリンの切手じゃん!」といかにもカモっぽくノッて置きながらバッサリ断わったり、「どこの大学?」「九州の、、、」「あ、九大?」(驚きと喜びの含んだ笑顔)「いえ、大分県のAPUです」「あぁ、聞いたことあるよ」(落胆の含んだ愛想笑い)という会話を自称「元・金融マン」の日本人の爺さんに軽く見下され(たような気がし)ながら交わしたり、「中国人ですか?」と話しかけられて、「いえ違います」「ああそうですか、そう見えたもので」「ええ、でしょうね」「ではこのパンフレットだけでも読んでみて下さい」「ああはい、どうも」と見てみると、エホバの証人のものだったから「おれは死にそうなとき輸血されたいからごめんなさい!」と強く思ったり。。。

 そんなことがあったりしたものだから、このヴィスワ川のほとりで一息ついてリラックスしていた時に話しかけてきたその大男に対して、僕はまず疑念の目を向けざるを得なかったのである。まず、手がやたらでかい。そして元気である。「おれの舟、あそこにあるからちょっとついて来いよ!」と誘ってくる。どうやら観光案内をしている人らしくて、英語は拙かったけども、二人で警戒しながら、しかしMに促されるような形で彼に着いて行くことにした。行き先はヴィスワ川を3分ほど少し遡ったところにあった。接岸されたその渡し船に乗ってみると、彼はたくさんのパンフレットと地図を船の操舵室の方から引っ張り出してきて、我々に見せながら説明してくれた。「あと何日居るの?」、「だいたい〇日かな?」、「だったらココとソコとアソコに行った方がいいね!」といった感じで。ポーランドの略史も説明してくれたようで、ポーランドの偉人の名前を言っているかと思われる場面もあったけれども、でも全く聞き取れない。とても素敵な笑顔をしていて、対岸に2分ほどかけて渡ってからも少し話し、その5分後への再離岸のときも「また乗ってけよ、向こう側に戻った方がいいだろ?」と声をかけてくれた。ちなみにこの舟、地元の人の足にもなっているようで、ワルシャワっ子たちが自転車を押しながら乗っていった。合計でおよそ20~30分の接点しかなかったが、とても親切にしてくれたミレック。別れ際には「最初疑って悪かったよ」という思いで、私の胸はいっぱいになっていた。

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▲PHOTO:ヴィスワ川両岸をつなぐ渡し舟(無料)にて、ミレックと話を弾ませる友人M(本当に話を弾ませているのだが、本人の希望でMの顔は、若干の眼鏡と鼻先を残してトリミングした)。操舵室にいるのは、どこか「昔かたぎのザ・舟乗り」というイメージ通りのおじちゃん。葉巻を加えながら、舵を切っていた。

 

 トモヤさんは確か同い年だ。大学を休学して世界中を巡っていた。タイ、インド、イスラエル、トルコ、イギリス(ロンドン)、ポーランドワルシャワ)を巡って到着したクラクフにて、我々と出会ったのである。その後はドイツ、メキシコ、キューバなどを経てアラスカへ渡り、すでに帰国しているそうだ。ともあれ、あれから約2か月経った今でも、彼と我々のホステルでの出会いは今でも鮮明に覚えている。

 マレーシア人旅行客によるアドバイスにより予定を変更して、その日の翌日にアウシュヴィッツを訪れて、色々な感情が渦巻きながら帰ってきた晩のことであった。泊まっていたホステルは、クラクフ旧市街の南東部に位置するShishkin Art Hostel。ここがなかなか居心地良くて、アパルトマンの一室をホステルに改装したところであったのだが、そこの共有スペース(ダイニング的なところ。第2章中に写真あり)にて2人で自炊した夕食(海外自炊定番のパスタ)を頬張っていた。すると、レセプションでのやりとりを聞く限りどうやらチェックインしたてのひとりの旅行客が、その扉の隙間から一瞬顔を覗かせたのである。目が合ったという確信があったし、その瞬間に、僕は何故だか「日本人だな」という確信もしていた。顔が山田孝之によく似ていたからだろうか(ちなみにそのことを後から本人に告げると、「鬚剃ると桐谷健太に似てるって言われるんだよ」と手慣れた感じで返された)。また偶然にもそのとき僕が来ていた部屋着は、サッカー日本代表のユニフォームだったものだから(実は偶然でも何でもなく、思いっきり日本アピールするための、というよりも外国人との話の掴みに持って行ったのである笑)、きっと彼もその時に悟ったことだろう、「あ、日本人だな」と。彼は通された部屋に荷物を置くなり、共有スペースにやってきた。開口一番、「あの~、日本人、、、?」。すぐに互いの自己紹介が始まった。僕は夕食として買っておいたバナナ1房のうちの1本を、彼に「お近づきの印に」と手渡した。私たちは身の上話をした。彼はそれまでの旅の系譜を、我々はなぜポーランドだけの旅行なのかを話した。そしてアウシュヴィッツに関するtipsを彼に授けることで、マレーシア人旅行客にもらった恩を、代わりに返したのである。

 私たちは、翌朝にチェックアウトをし、その足でクラクフを観光し、16時の高速バスでワルシャワに経つ予定であったから、彼の提案で翌日の行動を共にすることにした。幾つかのトラブルが翌朝あったが、とにかく翌日彼と旧市街を巡った。日曜のミサを執り行っている大聖堂に入ったり、楽器を演奏しながら練り歩いて踊っている民族衣装の行列を見たり、ズブロッカをひっかけたりしながら世間話をした。そしてこのズブロッカが、度数の高さにも関わらず飲みやすく美味いのである。

 クラクフ旧市街の目当てのひとつは聖マリア大聖堂において、1時間おきになるラッパであった。13世紀と14世紀半ばまでのおよそ150年間、ユーラシア大陸ではモンゴル人たちが席巻していた。彼らは東は朝鮮半島を経て日本列島へ(失敗)、南は今のベトナムインドネシアまで遠征を行い(それぞれ失敗)、インド亜大陸にこそ侵攻しなかったものの、西はまさにこのポーランドクラクフまで迫ったのである。遊牧騎馬民族おそるべし。その侵攻に際してポーランド側は、1人の男が塔の上からラッパを吹いてその来襲を知らせるものの、敵方の矢に射抜かれてその吹き手は息絶えてしまう。したがってその旋律はプツと途切れたのだという。その逸話が語り継がれ、今では1時間おきに「途中で不自然に鳴りやむラッパ」としてパフォーマンスがなされ、クラクフ旧市街の見どころのひとつとなっている。彼と共に広場に広がる骨董市の外側から、その音を一緒に聴いた。青い空に高く高く響いていた。彼の口癖を借りるならば、クラクフがとても良い街であることは「間違いないねェ!」。

 バスセンターで高速バスへの乗車まで見送ってくれた彼は、とても良い道連れであった。その行動力からバイタリティの強さが感じられ、話していてもその言葉の端々から、彼の知性とそれをきちんと言語化するセンスの良さを垣間見たように思う。世界一周という旅を、ただのスタンプラリー&show offのための旅ではない形で歩んでいる人間なのだなと、僕は肌で感じた。そのような人と、日本ではない場所で邂逅したことをとても幸せに思う。

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▲PHOTO:(下)屋台でパンを買うトモヤさん。本当に鬚が似合う。ますます山田孝之にしか見えない。「聖堂が好きなんだよねェ」と言いながら、ヴァヴェル城内の大聖堂の入場料の金額に愚痴をこぼしていたのが思い出される。また、僕らと別れた日の夜、教会で開かれたクラシックコンサートに足を運んだようで、もう僕かられば羨望の念しかない。音楽に関しては完全な無知だけれども、「ポーランドの教会でクラシックを聴く」というのは密かな憧れであったために尚更であった。

 

★曖昧なイメージを明確な言葉に変換すること

 脇役というイメージは持ちつつも、ほぼ白紙であった僕のキャンバスには、「期待」という制限の中で筆を動かすこと強いられることはなく、あらゆる物事や人との出会いの刹那に、そのときどきの色鮮やかな感情が点として表れる。それはまるで点描のように、自由自在に線を繋いでゆく。他国との比較の中にあった「脇役」としてのかつてのポーランドはもうそこにはなく、僕にとっての唯一無二のオリジナルとしての「ポーランド」が描かれていった。そして、この一週間の旅のなかで彩色されたそのキャンバスの披露として、こうして時間をかけてブログを書いてみたのである。

 しかしこの過程で、その僕が感じたことの唯一性を「ある程度分かりやすく書く」ということの矛盾・葛藤も感じた。でも、でも、でも、やはり「言葉にすることの価値」を、自身で確認する過程であったのも確かである。それは間違いない。だからこれまでにかけた時間と労力は、きっと今回の旅に対しての誠意ある総括だったように思う。きちんと言葉にしてゆくこと、その重要性を噛みしめながら、ゼミでの研究を中心に残りの学生生活を送ろうと思う。

 

 

 

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さいごに

 ★「日本人と旅に出る」ということ

 最後に日本人と一緒に旅に出ることについて、少しばかり述べたい。そのメリットは、日常をその旅先に少々持ち込めることにある。だから、隣に道連れがいるだけで不安は少し和らぐし、口を開けば話し相手にもなってくれる。そしてあえてデメリットを挙げるとすれば、そのメリット故にそこで起こることが「リアル」に感じられにくくなるということだろう。道連れという安心材料などなく、彼らの懐に丸腰で入っていく上で去来するその不安こそ、「リアル」への肉薄に必要なのではないだろうか。

 僕はその土地を消費するような「観光」はしたくなくて、可能な限りその土地で生きる人々のようでありたい。異分子ではなく、彼らの目を持ちたいと思う。日本社会でしか生活したことない僕にとって、外国社会という完全な異社会において、その異質さを物珍しさという基準で楽しむのではなく、「リアル」なものとして真っ向から受け止めたい。だから典型的な観光名所だけでなく、地元の人々しか使わない路地とか好きだし、そんなところを歩くとだいぶ個人的には満たされる。しかしそれで「理解した」と驕ってはいけない。そもそも、そんな願望はきっと一生叶わない。何かのきっかけでポーランドに移り住んだとしても、僕は日本人としての「僕の目」を通してのみ、世界を見てゆく。理解してゆく。経験を通じて視野は広がるけれども、でも視点は死ぬまで私に固定される。そこは否定できない。

 だからむしろデカルトの如く目に見える周りの物事にやたらと疑いをかけざるをえなかった。「本当は飛行機など乗っていなくて、窓からの景色も全部モニターの投影で、この旧市街だって実は超特大のセットにすぎないのではないか」といった具合である。あの「異質さ」に、あれほどまでに囲まれていると、そんな妄想を繰り広げがちになるのだなと思った。しかし、そのアウェイ感もまた心地良く感じられて、うん、「やはり海外旅行は楽しいなぁ~」という月並みな感想に回収されていってしまうのである。なんか悔しいけど。笑

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▲PHOTO:(上)大きめのスーパーの様子。ここで中国人と間違われて「ニーハオ」と声をかけられたというのはさて置き、陳列棚の背は高いし、買い物籠は犬のお散歩みたいな感じだし、合理的なのか大雑把なのかよく分からない感じだった。いやでもポーランド人は本当にデカい。だからあれで良いのかもしれない。/(下)ワルシャワ旧市街、レストランの野外席。この手の店のウエイトレスさんはおそらく看板娘なのか、皆さんとてもお綺麗。時間を気にする「観光」なんかやめにして、昼間からビールとか飲みまくったら気持ちよかったんだろうにな。笑

 

 

★他にも述べたかったこと

 語り残したことは多い。「ここまで書いてまだ書き足りないのか」と突っ込まれそうだが、いやトピック自体はまだたくさんある。それくらい随所随所で考えずにはいられなかったのである。

 これまで言及したのは、かねてから考えていたこと、日本と違うこと、ロンドンでの旅と違うこと、ふたり旅ということ、ワルシャワクラクフの違いについてのこと、アウシュヴィッツのこと、民族のこと、歴史を学ぶということ、宗教を信仰するということ、戦争に負けるということ、国土を占領されるということ、単一民族国家であるということ、言語を学ぶということ、ステレオタイプのこと、旅と旅行が違うということ。。。

 それに加えて言及したかったことは、思いつく限りでは、ポーランドでもマクドナルドはマクドナルドであるということ(むしろ向うの方がすごい)、Free Wi-Fiが街中の至る所にあるということ(本当に助かる)、「美女」という概念についてのこと(四方八方にいたら、それは果たして「美」?)、ポイ捨てされたタバコと壁のグラフィティについてのこと(結構目についた)、水についての価値観のこと(Gazowanaが炭酸水、Niegazowana<non炭酸水>がいわゆるstill)、ショパンという世界的に有名な民族の誇りがあるということ(中山七里『いつまでもショパン』、おすすめ!)、飛行機が飛ぶということ(改めてすごいこと)、旅の最後の最後で重度の捻挫をするということ(「家に帰るまでが遠足」って本当笑)、お金さえ払えば旅ができるということ(明らかに恵まれすぎてる)。。。

 でも今回はここら辺にしておこう。もしかしたら今後のブログで、ちょこちょこでてくるかもしれない。もちろん約束はしないけれど。

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▲PHOTO:ワルシャワの中心部、メトロのCentrum(ツェントラム)駅入り口。後ろは「文化科学宮殿(Palac Kultury i Nauki:通称PKiN)」の夜景。高さ237m。スターリンソビエト連邦から衛生谷ポーランドへの「贈り物」として建設させた(1952-1955)したため、今でも否定的な意見が多いとか。 

 

 

★「リアル」とは何か、そして再訪へ

  ここに来て、このブログの行き着く点は、もうここのタイトルの「リアルへの肉薄」の部分しかない。そもそも、「ポーランドでのリアルへの肉薄」って何だろうか。そもそもそんなものがあると想定すること自体がおかしいのではないか、という<問いに対する問い>である。

 では仮に「リアル」でないとしたら、あの経験は「フィクション」なのか。いやきっと違う。ではあれはなんだったのだろうか。あの2か月前の記憶は何だったのか。そもそも記憶などあてにしてはいけないのか。いや記憶も「事実」の一形態、すなわち「真実」だ。非客観的で主観的な事実を僕はそう呼んでいる。では長い夢を見ていたのではなく、僕が確かにそこにいたという確信を持てる、それが「真実」であるとするその根拠は何か。土産か、写真か、体験談か、証人か。違うだろう。僕が見たあれを、聞いたあれを、嗅いだあれを、食したあれを、触れたあれを、僕はどのように証明したらいいのかということだ。はてさて、「リアル」ってなんなのだろう。

 

 「また行きたい」と思うとき、それはある程度の満足と、ある程度の不満足が共存していると僕は思っている。完全な満足をしてしまったら、「また行きたいなー」と思うことはきっとない。そこで少なからず抱えた「不満足」を埋めるために、人は「次」を思い浮かべるのではないだろうか。このブログでは主に「満足」の部分を触れてきたと自覚しているが、そうでない部分を引っ張り出してみると、きっとまた違ったこのポーランド旅の像が浮かび上がってくるのかもしれない。しかし期待のないところには期待外れも不満足もないという僕の仮説に従えば、「不満足」など存在しなかったと言える。あえて挙げるとすれば、「リアル」というものを見出したいという思いが「不満足」として膨らめば、また行きたいと思うのかもしれない。今後、僕がどのようにこの旅を解釈してゆくかは皆目見当もつかないが、その変遷もひっくるめて楽しみにしたい。そして実際に再訪した暁には、この「リアル」についての壮大な一章が、このブログに書けるに違いない。

 

 その時を楽しみにしながら、それまでの日々を過ごそう。自分の感受性を研ぎ澄まし、自他共に誠実に、粘り強く愚直に物事を思考し、そしてそれを丁寧に言葉にしていこう。それこそが「世界」への翼となり、エンジンとなるはずだ。

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(完)