the INGLENOOK

炉辺を囲むように。

030:瀧が語り、三葉が語らないこと。

 年末はインフルにかかって二日分のバイトをふいにしたけど、立ってるのも横になってるのも辛い、そんな状態だった僕は、ベッドの中でスマホをいじり、YouTubeで『君の名は。』をレンタルした。

 

 2016年は邦画が豊作だったといわれる。確かに『シンゴジラ』にはじまり、『君の名は。』『この世界の片隅に』、あと未鑑賞の『聲の形』などなど、話題作が多かったように思う。『君の名は。』に関しては、劇場で二度鑑賞した。一度目は新宿バルト9。劇中の新宿のシーンでも背景として若干映り込んでいる映画館だ。二度目は大分駅前のTOHOシネマズ。それ以来なので、三度目の鑑賞だった。

 

 まず、僕はこの作品が好きである。べた褒めする感想や矛盾を追究する非難めいたもの、あるいは中立的にその奥深さを考察しているものにも目を通す中で、「確かになー」と思える指摘もたくさん見つけた。僕としてはエンターテインメントとして面白いと思うし、(それを価値とするかどうかは別として)とても示唆に富んでいると思われるので、やはり「好きだなー」と思う。しかし今までオリジナルの考察・分析はあまり思いつかず、借り物の言葉しか持ち合わせていなかったので、こういう場で書くのを避けてきた。ただ今回は書けそう!ということで、筆を執っている。さて始めよう。

 

 作品から受け取った示唆の一つとして、この作品は「忘却」というものを「自分の力ではどうにもできないもの」として描いていることが挙げられる

 たとえば、かつての彗星災害の記憶が「かたわれどき」という方言や神楽の振り付け、そしてご神体内部の壁画という形で残ってはいるもののその本来の意味を知る人は誰もいないという点や、入れ替わりをした記憶が徐々に薄れてしまい、最後には消えてしまう点などがそれだ。しかしその一方で、瀧はわずかな記憶を辿りながら糸守湖の風景を画用紙上に再現する事に成功しているし、最後に二人は「ずっと探していたもの」としてのお互いを見つけることになる。

 どうしようもない忘却の波にもさらわられず、ずっと引っかかり続けている「何か」がある。そのことが、この物語をドライヴするし、観る者の感情を掻き立てていく。

 自分がとうに忘れてしまったものの中にもしかしたら大切なことがあったのかもしれない、でも忘れてしまったものが何か最早分からないという哀しさ。あるいは「運命の出会い」なんて嘘っぽいけど、でももしかしたら考えようによっては本当にあるんじゃないかという希望。そういった視聴者の色んな感情を、ラストシーンがすべて昇華していく。二人が会えないままの終幕だったら、おそらくここまでの客足は動員できなかったかもしれない。

 

……と思っているだけなら、ブログを書こうとは思わなかっただろう。さて本題である。

 

 とあるYouTube動画がある。左上の時刻表示や右上のテロップ、アナウンサーの服装やテロップなどから察するに、おそらく2017年3月11日に放送された番組の一部(が違法アップロードされたもの)である。〈追記:もうこの動画は削除されているようですね。2018年4月6日〉

www.youtube.com

 公開当時から、『君の名は。』と東日本大震災の関連は、『シンゴジラ』という比較対象の存在もあって盛んに取り沙汰されたと記憶しているが、この番組中では製作の前日譚が新海誠の口から語られる。津波被災地のひとつである閖上地区(ゆりあげ:宮城県名取市)を訪れたときのことが、『君の名は。』に大きなインスピレーションを与えていたのだという。

 

 このブログで何度か触れているように、僕は内湾地区(ないわん:宮城県気仙沼市)をフィールドに卒業論文を書いた。だからこの作品を観る度に、自分が現地で感じたことを思い出さない訳にはいかない。その点『シンゴジラ』の視点は、どこか「遠いなー」という印象が拭えない。〈被災者〉個々の顔は見えず、あくまで政治家や官僚、自衛隊や技術者がどのように対応をしていくのかが描かれているに過ぎないからだ。その点、『君の名は。』は、なんとなく「近いかもなー」程度には思っていた。

 

 しかし、僕は『君の名は。』を年末年始に久しぶりに鑑賞し、そしていくつかの関連動画をYouTubeで漁ったりする中で、あるひとつの、上に書いたような感想文とは異なる考えに辿り着く。

 

――君の名は。』は、もしかしたら〈被災地〉を描いてなどいないのではないか。

 

 むしろこの映画を貫いているのは、〈被災地〉との圧倒的な「距離感」、もっと言えば「隔絶感」である。先の動画においても、「もしかしたら自分がそこにいたのかもしれない。じゃあもしも自分がそこにいたらどうするだろう」という想像の膨らませ方が示されているように、新海のポジショニングはあくまで「外部」なのだ。

 

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 映画の鑑賞者は物語の中盤で、糸守の運命を知ることとなる。だからあまり気に留めていなかったけれど、作中に登場する糸守町関係者で、故郷にかつて起きたこと/これから起きること(=彗星災害)を知っているのは、ラーメン屋の御主人とクライマックスの三葉、この二人だけである。実に少ない。しかも彼らの口から、そこで何があり、その後どのような過程を辿っているのか(ex. 復興や避難生活、政府の対応)について語られることはない。

 

 つまり彗星災害に関して、私たち視聴者は全て間接的な情報源によって知る、という構造になっている。具体的には、瀧の友人・司や奥寺先輩からの伝聞、図書館にある記録や文献によって、私たちはかつて糸守で何が起きたのかに驚愕し、物語の終盤の瀧のモノローグやメディア報道によって、私たちは糸守の人々が助かったことに安堵する。

 だからこそ、新海がラーメン屋さんの御主人に語らせた「あんたの描いた糸守、あれは良かった」という瀧への言葉、これはとても重く、かつ多くを物語るのである。劇場ではじめて見たときから、印象深い台詞の一つだ。

 

 ちなみに三葉に至っては、最後の「彗星災害から8年後」の一連のシーンにおいても、それについて触れる場面は皆無であり、ここでも瀧のモノローグが語られるだけである。(いや、もしかしたら小説版には何か回顧があるのかもしれないけど、でもそれは裏設定的、補足的なものに過ぎないのであって、ここでは映画において何が語られ、何が語られていないのか、この線引きからこの映画のポジショニングを捉え直しているのであって、その辺りに詳しい方はどうぞご了承ください笑

 

 ここに大きな示唆がある、と僕は思った。

 

 僕も含め多くの人間が、東日本大震災についてメディアを通じてしか知らないのと同じように、あの映画の中においてさえ、私たち視聴者は彗星災害について直接何も聞いていない。新海が意図したものかどうかは知る由もないけれど、彼はそのような意味において、〈被災地〉や〈被災者〉を描いてはいないのである。

 

――「今はもうない町の景色に、なぜこれほど心を締め付けられるのだろう」

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 この台詞は、終盤における瀧のものであるが、僕はここに、これまで述べてきたこと、すなわち本作のポジショニングが凝縮されていると考えている。

 この言葉をストーリーの中で聞くと、視聴者は(それが夢だったのか現実だったのかは別にしても)瀧が三葉と入れ替わって糸守で暮らしたことや、三葉のことが気になって彼女を探しに行き、そして助けようとしたこと、彼女の手のひらに「好きだ」と書いたことを知っているから、この台詞を先の「忘却」と結びつけて切なく、ロマンチックに解釈しようとするだろう。「嗚呼すべて忘れてしまっても、絶対に忘れないものもあるんだ............泣」と。

 

 だが先の気づきを踏まえれば、「もしかしたらこの台詞には閖上を前にしたときの新海の感情が挿入されているのかもしれない」と考えてみることもできる。むき出しの地面に、瓦礫が散乱し、見渡す限り更地となってしまった場所に立って、新海は「こんなに物音がしないとも思わなかったですね」(動画4分50秒ごろ)と語っている。

あの場所で新海が感じたことが、この瀧の台詞の本意なのかもしれないし、もしかしたら本当はこの台詞を言わせるための、本作だったのかもしれない。 もしかしたらこの台詞だけは、ノンフィクションなのかもしれない。

と、少なくとも僕は、年末に作品を見返して以来(そしてお正月にも見て以来、余計に)思えてならないのである。

 

 言うなれば、この作品はどこまでも「非〈被災者〉目線の物語」である。あるいは、あの震災を直接の当事者ではない人が、しかし日本で起きたこととして、我が事として、つまり一当事者として考えるならば、一体どうしたらよいのだろう、と自問自答している物語。

 

 アニメーションやSFなど、様々な手法や分野で何度も使われてきた「隕石衝突」、「男女の入れ替わり」、「タイムトラベル」といったモチーフ。それをストーリーとしてどのように成立させるかという観点から考えれば、ご都合主義的に見える点が幾つかあることは確かに否めないし、そこで忌避してしまう人の気持ちも分からなくはない。あるいは、このような非〈被災者〉目線に貫かれていることを見抜いた人が、「震災をネタにした自己満映画だ」とその点を批判していることもあるだろう。この手の作品が伴う政治性は、やはり無視できるものではない。

 

 でも僕はこの映画にどうしても魅了されてしまうし、考えさせられてしまう。それは、あのとき津波の映像にくぎ付けになるだけで何もできなかった自分に対して、思うところがあるからなのかもしれないし、そういった、あるいは僕のとは別の非〈被災者〉の目線からこの映画がスタートしていて、それに基づいてストーリーや演出が構成されているからなのかもしれないのだ。