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炉辺を囲むように。

015-2:「英語の通じない国に行きたい」について

(続)

 

第2章「英語の通じない国に行きたい」について

  予め述べておくと、第2章「英語の通じない国に行きたい」と第3章「ヨーロッパの脇役的な国に行きたい」のきっかけは同じ出来事だった。それは2013年9月(大学一回生時)に、1週間のロンドン一人旅に行ったことである。そこで感じた気づきのひとつが第2章の内容として、また別のものが第3章のそれとして、むくむくと知らぬ間に大きく育ち、今回のポーランド二人旅の動機にまでなったのである。さてまずは第2章「英語の通じない国に行きたい」について述べてゆく。

 

★自分と英語のこと

 語学としての英語は、現在とてもではないが「勉強している」と言える状況ではない。英会話教室に13年3ヶ月通っていたり、浪人期に必死に叩き込んだりこそしたが、APUに来てからは一英語学習者として、自主的に何かに必死になって取り組んだことはあまりない。APU1年目の英語上級2と英語プロジェクトといった授業においては、「やらねばならない」という状況に追い込まれた/追い込んだ時点で、どこか受動的な機会を求めていた感はあったのではと今思い返す。またこれまで参加したGateway APU buddyやSALCでのTOEFLチューター、そしてConnext Asean Japan CampのTAなどの課外活動であっても、「英語を学ぶこと」を第一義としたことはなかった。それはやはりどこまで行っても手段だった。そもそも遡れば、東京外大からAPUに志望先を切り替えた浪人期から、「『英語を学ぶ』ではなく『英語で学ぶ』ということ」、その空気にAPUの魅力を感じていたのだから、これまでの2年半のスタンスが先述のようなものであっても何ら不自然ではない。

 さて、別に自分の身体に英語が染み込んだなどと調子に乗るつもりはない(実際そんな実感すらない)が、もはや「学ぶ対象」としての英語ではなく、「何かを対象としたとき、磨いておかなければ使えない道具」としての英語と、自分は付き合っているのだなと改めて感じている。前段と被るけれども、言い換えれば、「主体としての僕」と「客体としての英語」ではなく、「主体(僕)が何か他の客体に立ち向かうための武器として携えている英語」だということである。もちろん明確に目的から手段に移行したとも思ってはいないが、しかしだからといって、それらが勉強しない理由にはならない。研がなければ錆びてゆく一方なのだ。となれば、英語を勉強していない現状に対しては、やはり「手段として発揮する必要がない」とか、「面倒臭い」といったお決まりの言い訳が頭に浮かぶ。だからやはり僕の英語学習の現状は、私が主体的作り出しているというよりは、惰性的にそうなってしまっている、と言った方が正確なのだ。こんな恵まれた環境にいながら勿体ないなぁと本当に思う。こんなに多様性を良しとしているキャンパスなのだから、せめて主体的に学ばないのならば学ばないなりの、説得力ある主張があればまだマシなのだがそういう訳でもない。

 ちなみに『英語化は愚民化』という本がある。私はしばらく前に読んだのだが、ぜひ一度読んでみることをお薦めする。もちろんこれで「自分が勉強しないこと」を正当化するつもりはない(笑)。この本の内容は主に、偏狭なナショナリズムに基づく感情的な理論などではなく、明治期の英語受容に対する先人たちの見解に始まり、英語化を進めたい側の論理の背後にある新自由主義と、それが実現したときの日本への影響、その他多方面から「国策としての英語化」の危うさを述べている。個々人が勉強したり、留学することに関しては何ら批判していないので、決して排外主義的な極論を述べているわけではない。議論の対象はあくまでも限定的である。しかしだからこそ余計に、「スーパーグローバル大学構想」を旗揚げした日本国政府とそれに採択されたAPUという、その当事者として生活している今、この本を読むということは自分の置かれた現状を省みる上で大きな刺激となった。水戸黄門の印籠のように「グローバル化」を突きつけられれば「ははぁ」とひれ付している傾向が強いなぁという印象の現代日本、とりわけ人材育成業界と大学現場。さてその内実に対して、そしてその未来に対して、今一度注意深くなってみてもいいのではないか。

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▲PHOTO:ポーランド最高レベルのワルシャワ大学 、その正門。1816年、ロシア皇帝アレクサンドル1世が、「ポーランド分割」によって掌握して立てたポーランド立憲王国に、大学設立許可を与えたことによって開学。かつてショパンも学んだ。日本学科の入学倍率は20~30倍にものぼる超難関だという。参考までに以下の動画は「笑ってこらえて」の特集。

www.youtube.com

 

 

★ロンドンでのこと

 閑話休題、どうして英語の通じない国に行きたいと思うようになったかというと、先にも述べたが、そのきっかけは2年前のロンドン一人旅である。細かな路地にまで名前がついているロンドンでは、地図さえきちんと読めれば道に迷うことも無いし、同じホステルに7連泊したこともあって、中日くらいから最寄りの駅に帰ってくると不思議と「帰って来たわぁ」といった安心感を得たくらいであった。地下鉄も乗りこなしていたし、何かに困ったら聞けば通じるし、持って行った予算に対して物価が相当高かったことを除けば、不便さを感じたことはほとんど無かったと言っていい。

 ただそうは言っても、さすがはネイティブスピーカーの国、英語には何度か苦労した。迂闊にオープン・クエスチョン(5W1Hを聞く質問で、返答内容の幅が広いことから)をしようものなら、機関銃のような返しが繰り出されたりした。それ以来ある程度要点を絞ってクローズド・クエスチョン(Yes/Noでしか答えられない質問で、会話の誘導ができる)を重ねたりと、対策をしたこともある。そう、だからこそなのだが、もう少しハイレベルなサバイバルを、言語という唯一の武器を捨てるという経験を、数少ない手札でうねうねと知恵を絞る経験を、僕は旅先で無性に欲したのである。そんな安直な動機で僕が出した、それを実現させるための手段が、「英語の通じない国に行く」というものであった。

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▲PHOTO:英語で「internal road」の意。しかしこの赤斜線の意味するところは何だ。「internal roadだから入るな」という意味か、それとも「internal roadではもうありません」という意味か、いやそれだったら引き抜いた方が楽だな。てかそもそもinternal roadって何だ?ネット検索しても出てこないのだが。内側の道ということで「路地」とか?確かにこの写真のトコは路地だったけど。

 

ポーランド語と現地語の機能と「ギャップ」について

 ポーランドの人口構成はその97%がポーランド人が占めている。いわゆる単一民族国家である。したがって公用語ポーランド語であるため、それが一通りできれば取りあえず不便はしない。しかしながらこのポーランド語、非常に難しいのである。格変化だけで七種類あり、それぞれ主格(主語化)・生格(所有格化)・与格(間接目的語化)・対格(直接目的語化)・造格(?)・前置格(?)・呼格(話法の一種)に変化するのだ。一つの名詞がだ!全くもう面倒臭いったらありゃしないのである。マレー・インドネシア語の楽さったらないのだ。まあとにかくそんなことだから、格や時制、単複を考慮しなくてはいけない文章を使うことは端から諦めたのである。一方、Mは結構言語に興味もつタイプで、フィンランド語とか独学してた経験があったことから、積極的に片言のポーランド語を使っていた。

 という訳で僕が覚えたポーランド語の表現はたったの3つ。店に入ったときやどんな時間帯でも使えるオールマイティーの「Dzieǹ dobry(ヂェン ドブル・こんにちは)」、ポーランド語できない風に見せかけてぶちかます最後の決め台詞「Dziekuje(ヂンクイェ・ありがとう)」、支払いまで済ませてわざわざ伝えに行くという、ただただポーランド語使いたいときだけに披露する「Smakuje(スマクーイェ・おいしい)」。

 これだけでも、ポーランド人たちから笑みを引き出すことができる。いや、これは冗談ではない。本当に驚いたことでもあり、しかし当たり前のことでもあるのだが、これらの基本の挨拶を使うだけで、相手方のリアクションが全く違うのである。英語一辺倒ではなく現地語を覚えて使うということは、コミュニケーションという相互的な活動において必要不可欠なのだということを再確認した。日本でもそうだろう。見た目からして外国人観光客然としている人が、日本語で話しかけてきたら、やはり少なからず嬉しいし、もし困っているようなら助けてあげようかなという気持ちにさせてくれる。歩み寄りの姿勢の体現、それこそが現地語の使用なのだろう。言語の壁を融解させ、それによって互いの誠意が溶け出し、そして笑みと言葉を媒介して交じり合う。そのような至福の作用を、現地語はもたらしてくれる。

 さてポーランド単一民族国家だと言った。日本も人口の構成でいえば同じ分類となる。だからなのかもしれないが、僕はポーランドで日本を見た思いがした気が何度かあった。たとえば、どうやら「外国人(アジア人)」が珍しいようで、めちゃくちゃジロジロ見てくる。今でこそシリア難民問題で欧州は「異質な他者」の流入に揺れているけれども、傍目(日本人目)から見て、アフリカ系もラテン系もアラビア系もアジア系も、主要な観光地にいる観光客としてでしか見かけることはなく、一般市民がいるところではほとんど見かけることはなかった。だからなのか、たとえばレジに並んでいて、前のポーランド人の支払いが終わって、次に並んでいた私たちの顔を見るなり、店員さんの口から「Hello」が出てくる。もちろん年配の方とか、どうやら英語話せないという人は呪文のようなポーランド語を浴びせてくるけれども、基本的に英語が出てくる。きっとそれは恐らく一般的な日本人が、外国人と話すときに少しばかり緊張して、外国人対応モードになるのと全く同じではないだろうかと考えた。国内に外国人が少ないから、条件反射のように外国人には「Hello」が出てくる。そしてそういうモードに切り替えているからこそ、現地語が不意に出てきたときに、その想定と現実とのギャップから嬉しさや驚きへと変化するのだろう。

 そのようなやり取りの当事者になれる特権を持っているのに等しいのだから、「外国人対応モード下での"Hello"に対して若干の疎外感を感じる」などの小言は、今回は控えることにする。いや、書いてしまっては控えたことにはならないか。

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▲PHOTO:クラクフ行きの電車を待ちつつ、ワルシャワ中央駅ホームにて。ワルシャワはもちろんクラクフにおいても公共交通機関は十分発達しており、初めて来た外国人にとっても使いやすい環境であったことは間違いない。とはいえ予約が必要なものに関しては、可能な限りネット上で済ませておいた方が賢明だろう。

 

★コミュニケーションのこと

 しかしそういう「ギャップの振り幅」が大きいことは、日本人にとっての多文化理解において、諸刃の剣になりうる可能性(ともすれば危険性)を持つのではないかとも思う。というのもその時点ですら喜びを見出だせるということは、「それこそが異文化間コミュニケーションなのだ」と納得してしまうかもしれないからである。「交流止まり」の典型ではないだろうか。手段としての英語や他言語などの言語習得がいつのまにか目的として固定化していたり、それら言語を手段として話す上での内容の部分を磨くことが疎かになったりする。そういう人がチラホラいたりして、大学の促進する「グローバル人材」育成の方向性にしばしば(否、しょっちゅう)幻滅したりする。いやはや、こうして何かと大学批判になってしまうのは私の悪癖である。

 とはいえやはり会話のツカミとして、相手の現地語を覚えていることはコミュニケーションスキルとして、とても重要である。たとえば第1章にて先述した、アウシュヴィッツの入場時間に関する忠告をしてくれたマレーシア人との最初の会話は、以下のようなお決まりのものであった。

  • Hi, I'm from Japan.
  • Oh, from Japan! We're from Malaysia.
  • Selamat siang!(こんにちは)
  • WOW! Why can you speak it?
  • I studied it in university for four months.(これくらい1回生次に習ったマレー・インドネシア語で言えたわぁと後悔することになる)
  • University in Malaysia?
  • No, in rural area of Japan. The half of student population is foreigner. Some of them are Malaysian.
  • Great!

 これで心理的な障壁がいくらかほぐれたのだろう、その直後にアウシュヴィッツに関する適切な忠告をしてくれた。ちなみにそのとき、彼らはその夜に出発するブダペストハンガリー)への夜行バスに乗るためのチェックアウト直前だったようで、アウシュヴィッツの話を終えて自室に引っ込んだ我々のところまで、わざわざ挨拶をしに来てくれた。とても気持ちが温かくなった体験であった。

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▲PHOTO:(上)マレーシア人と話したShishkin Art Hostel(クラクフ)のパブリック・ダイニング。ここは三・四泊目でお世話になったが夫婦で営まれており、奥さんが日中、旦那さんが夜間をそれぞれ担当して24時間体勢。時々元気な盛りの息子がレセプションのlaptopでゲームしてる。とても居心地の良いところだったが、夫婦の時間はあるのかと少し心配。/(中)クラクフの旧市街を訪れたのは日曜日ということもあり、民族衣装に身を包み、演奏に合わせて、踊る若い男女の姿が観光客の目を釘付けにしていた。お爺さんの眼差しもかっこよかったのでパシャリ。/(下)ヤゲヴォ大学最古の建物「Collegium Maius」の中庭。1364年、カジミエシュ3世(「大王」)によって当時の王都クラクフに開学。ポーランド屈指の総合大学。地動説を唱えたコペルニクスや、近年では国際関係に影響力のあった法皇ヨハネ=パウロ2世が学んだ。

 

★サバイバルのこと

 さて大きく話が逸れてしまった。ロンドン旅行を契機に「英語が使えない国でサバイバルをする」という目標を立てたことまでは述べたと思う。こうして2ヶ月前のことを振り返ってみると、初日のアクシデントへの対処がまさに最大のサバイバル体験であった。まず簡潔にそのストーリーを追っていこう。

  1. フレデリック・ショパン空港に到着(18:00頃)
  2. アブダビ、ベルリンを経由したからか、僕のだけロストバゲージ(しかし友人Mのは出てきた)
  3. Lost and Found的な窓口を探すのに手こずる
  4. 遺失物手続きをするものの宿に着き次第空港当局に電話をすることを約束させられる(19:00頃)
  5. 円をズウォティに替える
  6. 空港から市内に出るための電車に乗るべく切符を買おうとするも券売機のシステムが分からず、何とか解明するも、お釣りが足りないからと大きいお金を入れても支払いができない(19:30頃)
  7. 近くの売店で水を買って小銭を作る
  8. 切符を買って乗車し、車内改札機の使い方を乗客のおばさんに教えてもらう
  9. トラムに乗り換えれば早いと思って、そこへの接続が可能と思われた(本当は全く降りなくてもよかったのだが)Warszawa Sluzewiec駅で途中下車
  10. トラム乗り場をお兄さんに聞くも英語が下手で何て言ってるか分からない
  11. Free Wi-Fi飛んでないとこだったからGoogle Mapは使えず、手持ちの地図で何とか現在地を特定し、トラムの駅も地図上で発見
  12. 実際に行ってみるも人気が全くなく、きっとすでにその路線の終電が行ったのだろうと早々に判断(20:20頃)
  13. 歩くしか方法がなくなるが、宿まで歩けば2時間弱くらいかかると見積もる
  14. チェックイン予定時間21:00を目指すには、バスかトラムに乗らなければならないが、結構発達したワルシャワの路線図を見ただけでは、どれに乗れば良いのか分からない
  15. バス停で待ってるお婆ちゃんに「ここに行きたい」と英語やジェスチャーで伝えるも軽くあしらわれて収穫なし
  16. やけくそになって「エイヤッ」と1つのバスに飛び乗って、先ほどの乗車券を再び改札に通す(ポーランドは鉄道・トラム・メトロ・バスの全てに共通の切符があり、空港駅で買ったのは「最初に改札機を通してから20分以内に別の交通手段に乗り換えて改札機通せばOK」という券だった。つまり我々は⑧~⑯までをギリギリ20分以内に収めたといくことになる)
  17. 若者なら辛うじて通じるかもと思い、取りあえずそのバスの終点が手元の地図上だと何処なのかをポーランド人男性に訪ねると、丁寧に教えてくれた。しかし途中から環状線的なルートに入って、ワルシャワ中心部には近づかないことが判明する。彼が途中の停留所での降りがけに「取りあえず終点まで行ってみなよ」って片言の英語で言ってくれる
  18. だから終点まで行くつもりだったが地図をまじまじと見ていると、幾つか先の停留所のそばに、ワルシャワに2本だけのメトロ(地下鉄)のRaclawicka駅があることに気がつき、めちゃくちゃ興奮する
  19. 彼の誠意ある忠告を盛大に無視。路線図を信じて途中下車(20:40頃)
  20. 同時にたくさんの人が降りて、人の波の先にすぐ駅入口発見
  21. さすがに20分はオーバーしていたので、改めて切符を買って電車の方向を瞬時に確認して飛び乗る(こういう所で逆方向に乗る方向音痴ではないことに心底感心)
  22. 4駅先のSwietokrzyska(ソヴィエトなんちゃら?)駅で下車し地上へ出る
  23. 地図にしたがってその交差点から1ブロック先の路地に入る
  24. しかし地図通りの場所にホステルがなく、代わりにレストランがある
  25. その店先で車のトランクをごそごそ遣っているおじさんに「こんにちは」とポーランド語で挨拶をしてホステルの場所を聞くと、iPhoneGoogle Mapでちゃちゃちゃっと検索してくれて「もう一個先だ」と教えてくれる
  26. 合掌しながらポーランド語の「ありがとう」を連呼する奇異なアジア人を演じて、とにかく走る!
  27. Oki Doki Hostel(http://okidoki.pl/wp/lang/en/)に、予想をはるかに上回る21:10頃に到着
  28. チェックインを済ませ、部屋で友人Mと健闘を称えあい、汗を乾かす
  29. フロントに戻ってロストバゲージの事情を説明して、ポーランド人の受付スタッフに空港当局に電話をしてもらい、荷物の行方の確認と送り先としてそのホステルの住所を伝えてもらう
  30. というわけで汗だくサバイバルは終了(ちなみに翌日、当局がバックパックをホステルまできちんと届けてくれていたので、夜にはフロントで受け取ることができた)

 この一件を始めとして、とにかく今回の旅ではアクシデントが多かった。毎日何かしら起ったのである。ロンドンに行ったときは、ロンドンのKing's Cross St. Pancrass駅の近くのユース・ホステル(Clink 78:http://www.clinkhostels.com/london/clink78/)に7連泊だったために、アクシデントが起こるとすればそれは全てにおいて自己責任であった。しかし今回は、ワルシャワクラクフオシフェンチムアウシュヴィッツ)→クラクフワルシャワという4回の大きな移動があったため、その所要時間やチケットの購入、バス・電車への正確な乗車など不確定要素が色々と多かった。

 例えばワルシャワからクラクフに行く際に、高速バス(Polski Bus社)を使おうと思い、ワルシャワ西駅PKPバスセンターに昼過ぎに行ったのだが、英語で「今日の午後にクラクフに行くバスはあるか?」と聞くと、そもそも英語はできないと言ってくるではないか。おまけに「ドイツ語は?」と聞かれる始末。できないと伝えると、肩を揺らして首を傾けながら鼻で笑われたのである。「はぁっ?」と結構ガチめにイラっと思ったが、まあキレたって仕方がない。下手に出ようと思い、メモで書いて希望を見せると「午後23時の便しかないよ」と言い捨てられた。ビックリである。キレたって仕方がないので、電車でクラクフまで行くことにした。その乗車券がポーランドの物価では結構高いのだが、バスなら5時間かかるところを2時間少しで、しかもとても快適な設備の高速鉄道に乗れたものだから、「まあ良しとしよう」と納得したのである。

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 ▲PHOTO:(上)⑩直前の初夕景。急いでいてもちゃっかり撮影をしている。しかしそれも序盤までで、後半は速足で景色を楽しむ余裕などなく、正確にホステルへ向かうことの手段として周囲をきょろきょろしていた。/(下)Oki Doki Hostelのレセプション(受付)。一泊目と二泊目の夜を過ごす。とても綺麗で、ホスピタリティーも行き届いていた。何よりロストしたバゲージの件で素敵な対応をしてくれたことには感激したし、受付の方々の美貌には驚かされた。ワルシャワを東西南北に貫く二本の地下鉄の結節点、Swietokrzyska(ソヴィエトなんちゃら?)駅から徒歩3分の好立地。宿泊費も安いしおススメ。

 

 ところでワルシャワ-クラクフ間の往路(電車)と復路(高速バス)から臨んだ地平線は、とても美しいものであった。僕は冷涼な地が結構好みのようで、次に行きたい国はモンゴルである。きっと同じくらい英語は通じない。もしも行くことになったらどうなるのだろうなぁ、と楽しみでならない。誰か一緒に行きますか。

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▲PHOTO:(上)ワルシャワからクラクフへ移動した高速鉄道からの景色。やばい。見惚れてしまった。/(下)クラクフからワルシャワから帰る高速バスからの風景。地平線!日本ではなかなか拝めない景色を堪能。

 

(第2章了)

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(続)