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炉辺を囲むように。

015:ポーランドぐるぐるして、「リアルへの肉薄」を。

 「天高く馬肥ゆる秋である。キャンパスの焼き芋が美味しいから、肥ゆるのは腹かもしれない」という冒頭は、10月上旬に書いたものである。少しずつ書きためてゆくうちに、気付けばすでに11月に突入していた今日、秋の過ごしやすさよりも冬の厳しさが、ちらほら顔を覗かせつつある。そんなキャンパス模様である。さて今回の記事は、2015年8月18日(火)~26日(水)にかけて、ポーランド共和国を訪れたときのことを書いている。

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▲IMAGE:ポーランド国旗、後ろに臨むのは文化科学宮殿の時計塔。(http://blogs.yahoo.co.jp/tojamokijp/9312935.htmlより)

 

 

いきさつ 

 「行く」ということを初めて口に出したのは、実際に行くこととなる一か月前のことであった。Twitter(@YuteToockgosh)上においてである。「おれと一緒に旅行したいっていう人間いるか」という事実上の公募制だ。もしも誰も反応しなかったらどうしよう、いやきっと見逃す人がほとんどさ、そうなったらそうなったでまた一人旅にしよう。そんな風にぼんやりと考えていると、LINEの方に即座に反応があった。中学二年生くらいからの付き合いのある親友Mであった。あれよあれよと、話はトントン拍子に進んでゆく。7月半ばのことであった。

 

 今回旅したポーランド共和国(Rzeczpospolita Polska)は、冷戦時代には「東」すなわちソ連陣営に属しており、東欧革命の流れの中で1989年に民主化を果たした東欧諸国のひとつである。北にバルト海、西にドイツが位置し、南にチェコスロバキアの両国、そして東側の国境にはウクライナベラルーシリトアニアが接している。国土面積は日本の5分の4(32万平方㎞)、人口は日本の4分の1(約3000万人)にそれぞれ相当し、民族構成的にはポーランド人が総人口の97%を占める「単一民族国家」である。欧州連合には2004年より加盟しているが、貨幣はユーロではなく独自通貨ズウォティ(ZŁOTY)を継続採用しており、日本国外務省によれば「EU加盟以降、2014年までに計50%の成長を達成し、EU内で2008年以降もプラス成長を維持した唯一の国」である。ポーランド基礎データ | 外務省より)

 

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▲IMAGE:首都ワルシャワと南部のクラクフを主に訪れた。①8/19-8/21(ワルシャワ)、②8/21-8/23(クラクフ)、③8/23-8/25(ワルシャワ)といった具合で行動をした。①-②は高速鉄道、②-③は高速バスで移動し、②の間にアウシュヴィッツへ日帰りで赴く。したがって現地では6泊、機内泊も含めれば8泊の旅であった。航空券は出国一か月前を切っていたために総込みで13万円ほどしたものの、現地で使った総額(ホステル代・移動費・食費・観光費・土産費・雑費)はちょうど4万円であった。物価の安いポーランドでは充分な生活ができたように思う。

 

 さて、一般的な話はさておき、僕個人がどうして「ポーランドに行きたい」と思うに至ったのか、その複線的な経緯から述べてゆこう。まずは以下に、系統別に箇条書きにしてみた。

 

A「アウシュヴィッツに行きたい」

B「英語の通じない国に行きたい」

C「ヨーロッパの脇役的な国に行きたい」

 

 そしてこの分類が存外しっくりきたため、それぞれを「章」として見立て、それぞれ当初考えていたこと、そして実際に感じたことを書いてゆく。したがって日付等の時系列等は前後することがあるので、まあそのあたりの順序はあまり筆者自身が重要視していないということでご了承願う。つまり「何をしたのか」よりも「何を感じ、何を考え、何を学んだのか」という部分が、僕にとっては大事だということだ。一応、僕がこの旅で目指したのは、「リアルへの肉薄」である。これを念頭に読み進めていただけたらと思う。

 

歴史

 さてその前に、ポーランドの歴史の中というものについて、僕の知っている範囲のことだけを幾つか書き記しておく。そうでないと余計なことをたくさん書きすぎる。先も述べたが、一番書きたいのは「私が何を感じたか」であるため、知識としての情報は最小限にとどめたい。

 さて一番目にも挙げたが、やはり今回の旅の最大の動機は「アウシュヴィッツ行きたい」だったが(具体的な内容は後述するとして)、そうは言っても「ポーランド史自体も興味深い」という思いは確かにあった。まず私が受験世界史などを通して暗記していたことをとりあえず列記してみると(まあ今でも列記できるのに自分でも驚きだが)は、①ヤゲヴォ朝カジミェシュ大王のヤゲヴォ大学創設、②かなりでかかったポーランドリトアニア連合王国、③2度のポーランド分割による領土消滅、④ショパンやキュリー婦人、法皇ヨハネ=パウロ2世ら偉人の存在、⑤「ポーランド回廊」、⑥ナチスソ連ポーランド侵攻、⑦アウシュヴィッツ強制収容所、⑧ワルシャワ条約機構、⑨ワレサの「連帯」、⑩民主化、⑪大統領機墜落である。こうして改めて見ると、意外に多かった。

 各項目にそれぞれ触れることはさけたいが、個人的な最大の関心事は、今回の旅先で学んだ「1791年5月3日憲法」である。これはなんと欧州では初の、世界ではアメリカについて2例目の、近代的民主主義概念にもとづいた成文憲法であったという(擁護の使い方が適当かどうか不安だが)。1789年のバスティーユ監獄襲撃によってフランス革命が勃発したのにも関わらず、ポーランドが世界で最初だったというのは個人的には驚きであった。しかし当時においても、先進的過ぎたが故に周辺国からは危険視されたようで、その直後の戦争に敗れたことを契機とする「第二次・第三次ポーランド分割」によってポーランドの国土は、それぞれプロイセン(現ドイツ)、オーストリア、ロシアに接収され、地図上より完全に消滅してしまう。ポーランドが国家主権を回復するのは、第一次世界大戦中まで待たなければならない。ロシア革命の勃発により当国が、かつてのポーランド領を放棄したことから、ポーランドは第二共和国の時代に入る。いやあ面白い。もう少し調べてみよう。

 

 ちなみにYouTubeに「ワールド・エキスポ2010上海」用に作られたポーランドの歴史についての動画があったので以下に貼ってみた。ぜひ一度観てみて欲しい。 


The Animated History of Poland - YouTube

 

 

本旨

 それぞれの章へは、以下のリンクから飛んで、そして最初から順に読んでいただけたらと思う。ところで数えてみたのだが、全文字数が30,000字を超えていた。時間と労力をかけ過ぎである。しかし帰国から2ヶ月以上経っているからこそ、こうして文字にすることができたというのも、また事実である。備忘録というか、僕個人のための文章という毛色が強いかとは思うけれど、その上で楽しんでくれたら、そしてこれを何か考える契機にしてくれたら何より嬉しい。書いた甲斐があるというものである。

 

◆第1章:

ytsukagon.hatenablog.com

 

◆第2章:

ytsukagon.hatenablog.com

 

◆第3章:

ytsukagon.hatenablog.com

 

以上