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炉辺を囲むように。

029:「野生展」と20年後の「2010年代論」

 10月27日の金曜日、「野生展:飼いならされない思考と感覚」に行ってきた。すごく大好物なテーマだし、中沢新一先生がディレクターとして参加されている。また以前僕の英会話の先生だった方の、建築士をされている奥様(建築設計事務所・teco)が会場構成としても関わっているということも知り、足を運ばない理由の方がむしろ見つからなかった。

 

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▲遠山孝之「丸石神」より

 

ディレクターズ・メッセージ

 人間みんなが同じ世界に生き、同じような体験をして、夜見る夢も同じようになっていく現代に、まだ管理し尽くしていない、まだ飼いならされていない心の領域が、どこかに生き残っている。私たちはそれを「野生の領域」と呼ぶことにした。

 この「野生の領域」に触れることができなければ、どんな分野でも新しい発見や創造は不可能だ。

 どうやったら、私たちは心の中の「野生の領域」に触れることができるか、どうしたらそこへの通路を開くことができるか。生活と仕事の中でこの「野生の領域」への通路の鍵を発見することが、「野生展」のテーマである。

中沢新一 

 

 2017年、生誕150年としてフィーチャーされるべき人物は、かの夏目漱石に限らない。南方熊楠(みなかた・くまぐす)をご存知か。宗教学者・人類学者である中沢の仕事は、この熊楠の思想研究においても知られているが、この「野生展」では、熊楠の見ていた〈世界〉を「野生」という視点から描き出すこともひとつ目指されていた。

 

 熊楠の仕事は、一言では表現しにくい。「〇〇学者」などという単一の肩書では、おそらく役不足である。強いて挙げれば、粘菌分類・粘菌研究において名高いと言えるだろうか(個人的には、彼の神社合祀反対運動がおもしろい)。夏目漱石正岡子規秋山真之らと大学予備門(現・東京大学)で同窓だった熊楠だが、予備門を中退し、アメリカ、キューバ、ロンドンを渡り歩いては研究に没頭した。ロンドン時代には、科学雑誌『Nature』に51本の論考が掲載されている。やがて、挫折を経て帰国した彼は、和歌山県那智の森に居を移し、ますます採集・思索に勤しんだという。

 これらの、いわゆる「自然科学的な研究」に加えて興味深いのは、〈世界〉の眼差し方に関する彼の模索である。以下の写真に収められているキャプションをお読みいただきたい。

 

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▲因果から縁起へ

 

 彼にとっての「縁起」とは、近代自然科学のものの見方をアップデートすることを企図したものではあっても、近代自然科学の全否定ではなかった。つまり彼は――この企画展に引き付けて述べるとするならば――我々の「野生」を覆い隠し、飼いならし、管理している強力な思考様式の、その重要性を理解した上で、しかしその体系の核心部にクサビを打ち込もうとしたのである。

 

  ちなみに以下は、今年の7月頃に読んだもの。熊楠の生涯を大雑把に捉えるのならば便利な1冊。もちろん彼の思想を理解していく上では、彼の著作に触れるのも大事だが、中沢新一に限らず、鶴見和子の熊楠論にあたるのも有効だろう。

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

 

 

 「野生展」が放つメッセージは、熊楠を引用しながら、何も「反・科学的に生きよ!理性を捨てよ!」というものではない。しかし「Don't think. Feel.」とも言っていない。彼の構想は、そういう「理性か感情か」「主観か客観か」といった、どっちかしか許さないようなグレーゾーンを排した思考の枠組みをも超えていこうとしていたのである。「そんなものの見方で、果たしてものは見えるのか」と。

 

 だが、やはり理解はされにくいだろう。しかしそれは中沢や、ましてや熊楠の落ち度では決してない。「そんなこと言ったって、こんなの一種のトンデモじゃないか」と解釈したがる(くせに自身の思考の凝り固まりを棚に上げる)人も一定数いるし、あるいは理解したような態度を取りつつも、自身の信念やイデオロギーを解体することのない人も、やはり間違いなく存在する。

 そういう人の、たとえば「西洋思想よりも東洋のそれが、いや日本の思想こそがスバラシイのだ」という(歪んだ)ナショナリズムを喚起してもおかしくはないし、反対に「アベは『野生』をも抑え込もうとしているのだ」という(不毛な)反体制的言説を導くこともありうる。こういった学問的成果をきちんと「受容」「理解」することなしに、自身にとって都合の良いものか否かでのみ「評価」するような、そんな空気さえ支配的である。

 

 我々は「野生展」というメディアを通じて、「野生」という語のシニフィエをもう少し読み替えて受容していく必要がある。各々にとっての「白か黒か」しかない、そんなモノクロームな「世界」からの逃走線を各々が引いていけるような、そんな読み替えをこそ。それこそ、茶髪だっていいじゃないか。

 

 理性的・合理的に考えること、この営みが近代社会を築き上げ、私たちの社会の「豊かさ」の基盤にあることは否めない。

 しかし、それが知らず知らずのうちに歪みを孕んでしまっているとき、それを「歪み」として感受することのできる〈触角〉を持つ者の〈声〉に、〈触角〉を持たぬ僕は耳を傾け、またあなたはあなたの信じている世界像をその外側から照射しているその〈声〉を頼りに、あなた自身の想像力を拡張しなければならない。

 そういった〈声〉は、きっと「どうせこんなの感情論だ」「根拠がない」「どうせ〇〇が黒幕にいるんだろう」といった誹りを受けるに違いないし、そういった誹りのほとんどは的を射ていないにも関わらず、本質に触れないまま空中戦は遠ざかっていく。それはいつの時代もそうだし、かく言う僕の〈触角〉こそ、まだまだ未発達である。

 

 そういった〈声〉に真実があるのだから、たとえば「マイノリティに寄り添おうよ」などと、そんな無粋なことを安直に言いたいのではない。まずは目を閉じ、耳を澄まそう。「野生」はきっと、そういう〈声〉を拾い得る〈触角〉となる。僕たちは少々、いや相当アタマデッカチに生き過ぎている。実は、僕やあなたのすぐ隣や後ろに、いや目の前に、絡まった現実をほどいていくための糸口が様々に隠されているのかもしれないのだ。まずはそれでよい。

 

 「野生展」から受け取ったもの、熊楠から学び取れるものの解釈を、一旦このように留保しつつ、ときに参照し、また疑いながら、徐々に身体の一部に馴染ませていくような、そんな態度を取りたい。 

 美術館や博物館は、学問や理論や書物は、イデオロギーや政治家は、「答え」を示さない。示されていると思って何か期待しているなら、それはおそらく間違いだ。そんな期待にこそ、野生展は揺さぶりをかけてくる。

 

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▲青木美歌「あなたに続く森」より

 

www.2121designsight.jp

bijutsutecho.com

 

 

 民進党の自滅と希望の党の失速に対して、立憲民主党が最後に躍進したものの、自公が3分の2以上の議席を獲得することとなった第48回衆議院議員選挙(10月22日投開票)は、その報道の相も変わらぬ冷め方を見るに、既に「過去」と化している。

 

九〇年代の亡霊たちが日本社会を徘徊している。(p.3)

という冒頭言で始まる本書は、大澤聡の編著による『1990年代論』(2017、河出ブックス)である。70年代以降に生まれ、90年代に多感な頃を過ごした論者たちによる20本の論考/エッセイが収録されている―――私たちの社会が未だに引きずり続けている「九〇年代的なもの」とは何か。

 

www.kawade.co.jp

▲1990年代の総括としてはまだ甘い。それぞれの記述が断片的なきらいもある。しかし読むまで知らなかったことも多いし、何より時代の空気感を各論者のテクストから少しでも感じられるところに、個人的には魅力を感じる。と思ったら、それが狙いであり大事なのだと、最終章(宮台真司と大澤聡の対談)に書かれていた。

 

 ソ連崩壊と冷戦終結の衝撃、55年体制の終焉をはじめとする政治の混迷、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件の混乱といった「1990年代的な事件」として紹介されるそれらの出来事は、1993年生まれの僕にとっては、どう足掻いたところでやはり昔話でしかなかった。

 しかし「九〇年代的なもの」を描き出そうとしている本書を通じて、現代に生きる我々により直接的な影響を与えているものとしての1990年代――明治時代や戦中期、高度成長期やバブル期ではなく――について、がぜん興味関心が湧いてくる。そして来るべき「2010年代論」に思いを馳せないわけにはいかなかった。

 10代後半から20代前半。僕の人生にとってとても大きな時期でもあったこの10年間は、おそらく「東日本大震災(2011)から東京オリンピック(2020)まで」という区切りと共に、後世において語られることになるに違いない。そのとき、たとえば20年後、あなたはあなたの、あなたにとっての「2010年代」を語れるか。

 

 先日の衆院選期日前投票に行こうと玄関のドアを開けると、マンションの敷地を小学校低学年くらいの子供たちが、雨の中、レインコートもそこそこに走り回っていた。それまでの頭のなかは「誰になら入れてもいいか」「絶対に入れたくないのは誰か」という(狭い)自問でぐるぐるぐるぐるしていたのだけれど、その姿を見た途端に、ふと「ああ、この子たちのためになる一票を投じよう」と思えた。

 

 時代に埋もれて足掻きつつ、かつ時代から距離を取るような足場を、やはりその都度確認していきたい。おそらく、そのための「野生」でもある。

 

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▲我が家の「ゴン太」くん。