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FESTINA LENTE the 2nd

視野を広げるより、まず己の視点を知れ。

026:ファンタジー、方向音痴、柏の葉

 皆さん、地図はお好きですかな? 今回は地図について書いてみたい。前回の記事(025:「ブラタモリ」、僕は好きだけどみんなはどう? - FESTINA LENTE the 2nd)の後半に、本当はここで書く内容を温めていたのだが、前半と巧く繋がらないばかりか、冗長になり過ぎで後に、つまり今回にまわしたのであった(まあ本記事も相当冗長なんだが)。。。

 

目次

  1. 物語における地図の魅力
  2. 方向音痴とGoogle Map
  3. 柏への通学

 随所でたくさんの本を紹介しているので、それにも注目してほしいかなぁと。まあ相変わらず、言いたいことを簡潔にまとめられない性分なので、お付き合いくだされば幸いでする。

 

1. 物語における地図の魅力

 恩田陸の『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)。本屋に平積みされているのをよく見るので書名は知っていたし、たぶん立ち読みしたこともあるんじゃないかと記憶する。だが、買ってはいない。

 作家先生には申し訳ないが、ハードカバーの小説はその価格から、よっぽどでないと買う気にはならないのだ。ただその『蜂蜜と遠雷』が、この度「2017年本屋大賞」を受賞し、史上初の直木賞とのダブル受賞となるという(恩田陸さん「本屋大賞&直木賞」努力の25年間 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online)。僕にはその凄さがよく分からないし、恥ずかしながら恩田作品は『夜のピクニック』(新潮文庫)しか読んでいないから、彼女の一連の仕事における『蜜蜂と遠雷』をどうこう語ることもできない。が、それはここでは大した問題ではない。

 恩田が10年前、2007(平成19)年に解説を寄せた本がある。上橋菜穂子の『精霊の守り人』(新潮文庫)の文庫版だ。NHK綾瀬はるかをキャスティングし、一昨年から映像化している関係で、その書名をご存知の方もいるだろう。短槍使いの女用心棒・バルサが活躍する壮大なハイ・ファンタジー(ハイ・ファンタジー - Wikipedia)、その末尾において、恩田は以下のように述べている。

 子供の頃、地図の絵の入ったハンカチを持っていた。

 いったい何の地図だったかは覚えていない。他愛のない絵地図で、家や川や池や畑が手書きで描かれていた。

 当時住んでいたところは周囲に田んぼや野原がたくさん残っており、毎日外で遊んでいたが、奇妙なことに、通っていた幼稚園のすぐそばに、そのハンカチの絵地図にそっくりな場所があったのである。しかも、その奥には謎の洋館があるというおまけつき。

 私は何度もそこに通っては、ひとりでわくわくどきどきし、何かが起こるのを待った。結局何も起こらなかったけど。

 

 今でも絵地図の入った本が好きだ。

 生きていくということは、この世界についての自分の地図を作ることだと思う。道も、景色も、自分で見つけていかなければならない。人が造った道を辿ることもあるし、草だらけの暗いけもの道を四苦八苦して進むこともある。

 子供の頃は、子供の本が世界の地図を与えてくれた。見返しの地図で、お話で、世界の仕組みを、善と悪を、生と死を垣間見せてくれた。[後略](pp.348-349)

 本当は全文お読みいただきたい。だが流石にそれはあれなので、ぜひ書店で立ち読みでもしてみてほしい。ちなみにストーリー的に僕のお気に入りは、第二巻の『闇の守り人』である。

精霊の守り人 (新潮文庫)

精霊の守り人 (新潮文庫)

 

  「今でも絵地図の入った本が好きだ」。この言葉は、まさに僕のために用意された台詞のようである。

 物語を読むということとは、まるで初めての土地に出かけるような、そんな体験である。だからこそ地図は、その〈世界〉を理解し、把握するためのプラットフォームとして機能する。綴じ込まれている地図は、まさに旅人が携帯するそれとして用意されているのだ。しかし言い換えれば、その〈世界〉が重厚に作り込まれていなければ、つまり旅をするに値する〈世界〉でなければ、その地図は説得力を持たない。だから僕は、地図のついた本が、決して無条件に好きなのではない。地図をひと目見ることによって、ぐわーーっとその〈世界〉についての想像力を巡らしていけるような、そんな物語との関係において、絵地図の入った本は魅力を増していく。僕はそう考えている。

 

               ★

 

 思い出せば、宮崎駿原作の漫画『風の谷のナウシカ』やJ.R.R.トールキンの『指輪物語』をはじめとして、そこにある絵地図(以下)を、ずーーっと食い入るように眺めていたように思う。

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▲「守り人」シリーズの地図(http://www.kaiseisha.co.jp/special/moribito/world/より)。

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▲トルメキア王国から南西方向を見た絵地図。塩の海のほとりに「風の谷」が確認できる(http://flying-fantasy-garden.blogspot.jp/2015/03/blog-post_16.htmlより)。

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▲『指輪物語』の舞台となる架空の世界・Middle Earth(邦訳:中つ国)の地図(http://ja.lotro.wikia.com/wiki/%E4%B8%AD%E3%81%A4%E5%9B%BDより)。参考までに「「指輪物語」の作者トールキンの地図 想像と現実が交差 - YouTube」も貼っておきます。

 

 そういえば、自分で架空の地図を事細かに描いていた記憶もある。「山の麓に街はできるかな」とか考えながら、あるいは「川べりに定住するとしたら、この辺だろうな」などと夢想しつつ作り上げたそれは、人間・社会・自然に対する、僕自身の理解の顕れでもあった。

 だから地理・歴史・公民の勉強は、学問や文科省が設けた境界線を軽々と飛び越えて、僕の頭の中で融合していったし、それらは地学系の理科分野(天体・気象・地質)を中心として関心の円が広がっていった。よく覚えている。

 ポケモンのゲームは、その地方の地図を頭の中に描広げながらプレイするのが面白かったし、だからこそPokemon Goは、AR(拡張現実)と言いつつ、現実世界との連関性がなくて楽しめなかったんだと思う。2004年のクリスマスに買ってもらえた「ルビー」から、12年。遂に昨年、捕まえること・コレクションすることではなく、何が僕にポケモンを面白く思わせていたのか、その源泉を強く実感させられた。

 

 先にも述べたように、地図それ自体の厖大なエネルギーに耐えられない物語には、全く魅かれない。同時に、物語を背負っていない地図にもさほど魅力を感じない。では一体どういう物語に、心を躍らせてきたのか。

 

                    ★

 

 マジョリティが信じる世界に、マイノリティの生きる世界のレイヤー(層)が、薄くしかし確実に覆いかぶさっている物語、とでも言おうか。その双方の世界を行き来する人々の物語。マジョリティはマイノリティの存在を知らず、マイノリティが身を隠している物語。マイノリティの世界がマジョリティの世界に、何らかの影響を与えている物語。小さいながらも二つの世界の通路は確実にあって、しかし双方はそれぞれの制度上閉じているのだけれど、そこを横断していく登場人物たちの物語。

 そんな物語が大好きである。未だにである。

 

 手始めに『ハリー・ポッター』を挙げたい。僕を、本の世界に誘ってくれた道しるべとも言うべき重要な本だ。魔法界はマグル(非魔法族、つまり人間)に隠れて、しかしその隣人として存在する。この設定は、非常に示唆的である。設定上は「魔法使いたちが自身を魔法で隠している、マグルたちを遠ざけている」というのが正しい理解だ。しかし同時に、作中の魔法使いたちは「マグルたちは気づかない」とも語る。ここに、本シリーズの本質的なテーマがあるのではないか。

 僕たちはすぐ近くにいる/あるのにも関わらず、それに気づかないということがあまりに多い。むしろ「気づかないようにしている」と言った方がより正確かもしれない。差別の問題など、その典型である。言葉の使い方・選び方のひとつに、その人の価値観は現れる。今読んでいる本に、森山至貴の『LGBTを読みとく』(以下)がある。

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

 

  自分の知らない世界の、しかし確実に自分に影響を与えている世界の出入口は、案外すぐ近くにあったりする。誰も9番線と10番線のあいだにあるとは思わない。しかし確実にあるのだ。そのことを『ハリーポッター』は教えてくれている。

 

 夢枕獏の『陰陽師』シリーズ。これも挙げておく必要があるだろう。

 ただ陰陽師というテーマは非常に「便利」なようで、今日はしょうもないアニメやらソシャゲやら何やらその辺の輩が蔓延している。この『陰陽師』を原作として、野村萬斎伊藤英明で映画化したが、あれも正直に言えば、見るに堪えるものにはなっていない。

陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)

陰陽師(おんみょうじ) (文春文庫)

 

  自然や物、それにも何かが宿る。それは普段は目には見えない。しかし見えるときがあり、見ることのできる人がいる。それが安倍晴明(あべのせいめい)である。読者は源博雅(みなもとのひろまさ)の目線から、異形のもの、妖怪、霊と邂逅することになるのである。

「おまえはよい漢だが、こういう方面の話はあまり興味がないのではないか?」

「だからどういう方面の話なのだ」

「呪(しゅ)よ」

晴明は言った。

「呪!?」

「呪について、話してきたのだ」

「何を話した?」

「たとえば、呪とは何であるのかというようなことをだ」

「呪とは呪ではないのか――」

「それはまあそうだが、その呪が何かということについて、ふと思いついたことがあったのでな」

「何を思いついた」

博雅が訊く。

「そうだな、たとえば、呪とは、名ではないかというようなことだ」

「名だと?」

「まあ、せくなよ、博雅。久しぶりに酒でも一緒にどうだ――」

晴明が、微笑して言う。

「酒をよばれに来たのではないが、出てくる酒を拒みはせぬ」

「まあ、つきあえ」

晴明がぽんと手を叩いた。(『陰陽師』pp.26-27)

 中学生1年ごろから読み始めたこのシリーズだが、英会話教室に通っていた自分にとって、言語とは何かという関心も大いに育んでくれた。また自分の身の回りの一切(講義の「環境」)に対しての感覚、言い換えれば「自然観」についての興味関心も触発した。ハリー・ポッターにも陰陽師にも、視覚的な地図は登場しない。しかし地図を描くに値する重厚な〈世界〉がそこには広がっている。

 

 他に挙げれば、佐藤さとるの『コロボックル物語』シリーズも大好きだ。コロボックルという親指大の小人たちとの出会う少年少女の物語である。1959年の出版だが、全く色褪せていない名作だ。

コロボックル物語1 だれも知らない小さな国 (講談社文庫)

コロボックル物語1 だれも知らない小さな国 (講談社文庫)

 

  自分たちの知っている世界を、小人の目から見ると全く違う。この複眼性や、相対主義的な見方。〈世界〉が大きく見えること、あるいは小さく見えること。物事の絶対的な姿や大きさなど無いということ。小人の世界への憧れは、地図を用いて世界を見下ろす感覚のおもしろさと、同根なのではないだろうか。

 

                  ★

 

 この関心は今の問題関心へと、つまり今大学院でやろうとしていること(質的方法による環境社会学)へと、大いに結びついている。

 環境社会学・第一人者のひとり、鳥越皓之は『環境社会学:生活者の立場から考える』(2004、東京大学出版)に、その学問的関心に関して以下のように説明する。

 社会学は社会的存在としての人間を対象にする学問である。「社会的存在としての」という言い方は、私的ではないということである。A子さんがB君と熱烈な恋愛関係にあるという私的なことは社会学の直接的な関心事ではない。しかし見合い結婚よりも恋愛結婚の割合が社会全体として増える傾向があるとしたら、その社会現象は社会学の対象になる。また、E.デュルケームという19世紀の末に活躍したフランスの社会学者は、『自殺論』という有名な本を著した。そこで次のようなことを指摘している。かれは都市の居住者や1人だけで住んでいる人たちに自殺者が多いことに注目し、自殺率はその人が所属している集団の凝集力に反比例して増減すると指摘した。平たくいうと、ある人がすごく親しみを感じる集団に所属していると自殺する可能性が低いということだ。これなども、Aさんという個人を自殺に追い込んだ個別の問題(仕事に対する自信の喪失、失恋など)を対象にしているのではなくて、その人の社会的所属という社会の中での人間を扱っていて、社会学的な考え方の典型である。いうまでもなく、環境問題は社会現象の一種である。なぜならそれは人間が活動する舞台としての社会で展開されているからであって、私的事柄として起こっていることではないからである。

 そういうわけで、社会という舞台で人間が自分たちの環境を悪化させ続けているとしたならば、その舞台の仕組みをあきらかにすることが環境問題を解決するひとつの有力な方法であることに気づかれよう。環境社会学はこのような考え方から成立したものだし、また環境問題解決に貢献するように期待されてもいるわけである。

 くりかえすと、環境問題は人間が起こしているだということ。となれば、人間を直接に対象とする学問がそれにかかわる必要があるということだ。しかも、環境問題は私的な現象として閉じられたものではないので、社会的存在としての人間(社会のなかで活動している人間)を対象とする学問が有効である。環境社会学の役割はここにあるといえよう。(pp.2-3)

 正直に述べると、1960-70年代から問題視され、1990年代から国際的解決への取り組みが本格化した「環境問題」なるものについて、僕自身は積極的な問題関心を持てないでいる。僕の関心はむしろ、問題解決を考えていく上で、科学技術(ex. 再生可能エネルギー、ハイブリッド/電気自動車)の開発ばかりが先行してしまい、結局、社会的合意や倫理、ひいては哲学といった人文系の領域がそれに追いついていないこと、さらには「経済的障壁」を乗り越える動機となり得る言葉を紡げていないことに対する問題意識がある。もっと簡単にいうと、科学技術の「すごい!」や経済的な「高い~」に対して、人文・社会科学系がそれと対等に渡り合えるパワーを有していないということに対する危惧である。

 

 で、僕が何に着眼しているかというと、前述した物語への評とも関係しているが、僕たちが自明だと思っている「世界」とは異なる別の〈世界〉の広がりに対してである。これに関して、社会学者・岸政彦の以下の説明は分かりやすい。

基本的には、ある行為者がある行為をした場合には、ほとんど必ずなんらかの理由や動機があるはずだと思っています。理由や動機があるということは、それはその行為は合理的であるということです。ただ、その合理性が、外からだと見えにくい。だから私たちにはわからない合理性にもとづいて行為しているひとを、ついつい非合理的だとか、あるいは『愚かだ』とかいってしまうんです。あるいは『自己責任だ』とか。でも、その裏側にある、そのひとなりの合理性を、社会調査をつうじて明らかにして、そしてそれをみんなにわかるように記述していく。これが質的社会学の仕事のひとつだと思っています。(【インタビュー】社会学の目的/岸政彦 - atプラスwebより)

 だから環境社会学者は、地域(これは都市に対しての地方/田舎という意味ではなく、ある「特定のエリア」という意味に過ぎない)に入っていく。その地域の合理性の中で生きる(と想定される)人々にインタビューをしていく。そのようして〈地図〉を描いていく。プラットフォームを作るために。

 

 

2. 方向音痴とGoogle Map

 「地図」というテーマには片足を置きつつ、少し話題を変えてみたい。方向音痴とGoogle Mapについてだ。既にお分かりだとは思うが、僕にとって「地図が読めない」という事態はまず理解できない。読めない人、方向音痴の人は一体何を見ているのだろう、と混乱してくる。

 では、まず僕が「当たり前」だと思っている、地図というものをその定義から確認してみたい。松岡慧祐の『グーグルマップの社会学』によれば、A・H・ロビンソン(1978=1984)は「地図」の条件を以下のように示しているという。

グーグルマップの社会学 ググられる地図の正体 (光文社新書)

グーグルマップの社会学 ググられる地図の正体 (光文社新書)

 
  • A)「縮尺」によって距離・方向・面積などがある秩序をもって示される。
  • B)通常は平面上に描かれる。
  • C)ある程度一般化された地理的事象から選択したものしか表せない。

 まず地図が読めない人は、おそらくB)については了解するだろう。地図が紙に印刷されていること、スマホのスクリーンに表示されることについて、流石に「分からない!」とはならないはずだ。そう信じたい、笑。

 

 問題は、きっとA)とC)である。おそらくはこの箇所が「理屈ではわかっていても、、、」という状態なのだろう。さて、僕らは一体どういうメカニズムで地図を見ているのか。「地図を見ながら歩く」という行為の過程を、以下のように段階別に解体しながら考えてみよう。ちなみに、道路上で行うことを緑色、地図上で行うことを青色で示している。

  1. 自分の周囲を見渡す
  2. 1)で得た情報にもとづき、地図上での「現在地」を見つける
  3. 「目的地」を地図上で見つける
  4. 「現在地」と「目的地」を結ぶルートを選択する
  5. ルートの要所をおさえる(例、三つ目の信号にあるファミマを左折)
  6. そのルートに沿って進む
  7. 実際に進んだ分だけ、地図上の「現在地」を更新する
  8. 6)と7)の繰り返し

 まとめると、1)から5)までは、地図上でスタートとゴールを結ぶ準備段階だ。だから、まだ進まなくていい。ゆっくり落ち着いて地図を取り出そう。そして周囲を見渡そう。しかし僕の知る方向音痴さんは大抵、「取りあえずこっち行ってみよう」と行き当たりばったりに、まず歩いてみようとする。したがって多くの場合、この準備段階の手続きを踏まないばかりに迷うべくして迷っていると言えるだろう。ただ僕の経験則で言えば、彼ら/彼女らにとって最も難しいのが、一番最初のプロセス、すなわち1)2)間の往復なのだと思う。地図の条件A)C)が問題だと先述したのも、その点にある。

 1)と2)の間で行われるのは、ズバリ、「水平的に見る実際の視界」と「垂直的に見下ろす視点」とのすり合わせである。つまり、周囲を見渡したときに視界に入る数多ある「情報」の海の中から、「地図に示されている地理的事象」と一致する情報のみを発見し、その情報間の位置関係から地図上に「現在地」を発見するのである。以下に例を挙げてみる。

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 あなたは生まれて初めて秋葉原という町に来た。土地勘は無いが、秋葉原駅まで戻りたい。手元には地図、そして目の前にはこの光景。この光景を参考に地図上の「現在地」と、自分がこの光景を見るにあたってどちらの方向を向いているかを把握しなければならない。

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 しかし、今やGoogle Mapがあれば「現在地」はおろか、どっちを向いて立っているのかまでも教えてくれる。現在地は地図(上)の中央、青い点だ。本当ならば、写真中にあるLAOXオノデン、ラブメルシーの位置関係から、「自分はこの青い点に立っていて、三角形が拡がる方向に町を見ているんだな」と把握する必要がある(下)。超簡潔に書いたが、これが1)と2)の段階である。

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 これが出来たら、次は「目的地」を見つけて、ルートを絞ることになる。3)から5)の段階だ。行きたいところは、秋葉原駅だった。上の地図には駅は見当たらないので、地図を少し広域にして、「現在地」と「目的地」を一望のもとに収めるように調節しよう。つまり秋葉原を画面に入れる。すると以下の図のようになる。

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 自ずとルートは、上記の二本(赤矢印)に絞られるだろう。上出来だ。そして問題はここからだ。地図上でどっちに行けばいいのかが分かったら、その「どっち」を現実の町の中で一致させなければならない!これもおそらく、地図とまちの行き来ができない方には難しい。最初の写真を思い出してほしい。あなたは、「オノデン」が正面になるように立っていた。うん、つまり進むべきは、その正反対の方向(下の矢印)、あるいは右に1ブロック進む方向(上の矢印)。あとはこのルートを歩くだけだ。ミッション・コンプリート。

 ふう。一苦労である。当たり前のようにやっていることを言語化することの難しさよ。日本語を外国人に教えるのと同じくらい、少なくとも中学一年生に「正負の数」を教える以上の、自己客観視/他者理解が必要な気がする。骨が折れるよ。

 

                ★

 

 しかし今や、これら全ての行程を、Google Mapは完璧にやってくれている。検索をするだけでいい。探索すらいらない。周りすら見渡さなくていい。画面が示すルートを追い、足下半径1mを見ていれば、目的地に着けるようになった。

 松岡(2016)は、地図の「マップ」化、GPSによるカーナビの登場(=地図のデジタル化)など、その社会状況にともなう地図の変遷を辿りつつ、Google Mapがそれまでの地図と何が違うのかを、以下のように述べている。

そこにあるのは、個人の身体を超えた空間の“広がり”などではなく、個人の身体に近接した現在地と移動経路の情報にすぎない。(p.73)

 「別府 焼き鳥」と検索すれば、地図情報と共に、店舗情報もパパパッと見ることができる。Google Earth(特に航空写真やストリートビュー)との連動も便利だ。Google先生は、ユーザーの「見たいもの」を、どんどん「分かりやすく」、しかも「リアルに」提示してくれている。まるで池上彰みたいだ。だからこそ、松岡(2016)はこうも述べている。

人々は自己の身体を離脱して全体を相対的に把握するのではなく、つねに自己の身体を基準にして「現在地」とその周辺だけをまなざすことに埋没するようになっているのではないだろうか。(中略)現地のことは現地に行けばグーグルマップが教えてくれる。そのような安心感とひきかえに、わたしたちは地図を主体的に読みこみ、全体を見わたすような想像力を失いつつあるのではないだろうか。(p.115)

 うんうん、なるほど。人々は実際の身体性や生きる土地から引きはがされた(「脱埋め込み」ギデンズ1993)ことによって「国民」になることができたし、「日本地図」なるものが示すその範囲/境界線を受容してきた。それが近代化という現象の一側面だった。それが「人々は自己の身体を離脱して全体を相対的に把握する」の意味するところだろう。しかしそれをも乗り越える現象がGoogle Mapによって起きている、というのが松岡(2016)の指摘である。すなわち「現在地」に埋没することによって、我々は個に内閉し、視野狭窄に陥っているのだ。

 このような議論は、SNSをめぐる今日のメディア論にも通ずるものがあるように思う。フィルターバブル(フィルターバブル - Wikipedia)によるパーソナライゼーション/個人化に関する指摘がその典型だろう。これは、本来広く他者に開かれているはずのSNSで、ユーザーたちは往々にして、繋がっていて心地の良い「友達」「フォロワー」との関係に閉じていってしまうというネガティブな指摘である。

 

 「地図を広げる」という言葉は、今や死語である。一枚の地図を大勢で囲む光景も、今やほとんど見られない。Google Mapが台頭する現代社会において、地図とは最早、それを広げる/めくるという物理的な行為にともなって「足下に広がっている世界を押し広げていくもの」ではないのだ。むしろ「自分の見たい世界を映し出すもう一つのリアル」と化している。スマホという広大な世界への入り口に顔を突っ込む僕らは、それによってむしろ〈世界〉を塞いでいるのかもしれない。

 

               ★

 

 僕は中学生の時、サッカーに取り組んでいた。練習試合にしろ公式戦にしろ、試合会場へは自分たちで向かうのがチームの基本だったが、試合会場までの地図は自宅で調達したものだった。パソコンでYahoo!Googleの地図を開き、プリンターで印刷したのである。いわゆる「ウェブGIS」だ。年代としては僕が中学生になったのが2006年4月で、引退することになるのが2008年夏である。この2年強のあいだ、パソコンで地図を印刷するは「当たり前」のことだった。無料の地図は、パソコンからでないとアクセスできなかったからである。しかしちょうど僕がクラブを引退するのと同時期に、すなわち2008年7月に、日本ではiPhoneが発売されることになる。しかし高校に進学する際、僕はスマホではなくガラケーを買い与えられたのだった。

 その夏、すなわち2009年7月、僕は横浜市最南部の祖父母宅まで、自転車(ギヤ付きのママチャリ。ハンドルはカモメ型ではなくストレート)で向うという小さな「冒険」をしている。そう、これは確かに僕にとって「冒険」だったのだ。わざわざ海岸沿いの平坦なルートを選択しなかったことからも、その気概が現れている。以下は、そのときに自作した地図である。

 

 今考えたら「マジかー(笑)」である。地図を印刷し、スクロールしてさらに印刷、さらに印刷。そして貼り合わせる。そして少しずつ少しずつ、このちょっと広域めの地図に予め引いたルートから逸れていないかを確認をしながら、ペダルを漕いだ。

 スマホなら適宜ズームして現在地を確認できたことだろう。しかし長距離行のため、小さい縮尺で印刷した地図は広域で、したがって少し大雑把である。細かい路地までは示されていない。曲がる箇所を間違えたら、途端に迷うことになる。ちょくちょく確認しながら進んだのを覚えている。人にも聞いたりしたんじゃないかな。朝5時に出発し、昼の12時に鎌倉に到着、目的地に着いたのは14時だった。2リットルのアクエリアスを、合計で3本飲みきった記憶がある。それだけの、あるいはそれ以上の量の汗をかいたのだろう。帰りは流石に懲りて、海沿いの道を選択したのだが(笑)。

 そうそう、なぜ「冒険」だったか、である(それを述べたかったんだ。忘れてはいけない)。自分の言葉が印象に残っている、というのも不思議なものだが、ヘトヘトで家に帰ってきて、父に感慨深くこう述べた記憶がある。

道って全部繋がってるんだなって思った。

 祖父母の家へはいつも車で行っていた。今でも年始の挨拶は欠かさない。1時間半もすれば着くし、その際に座席で寝てしまうこともよくある。だから自転車で行ってみようと思った当初は、「いつもより時間がかかるんだろな」程度にしか考えていなかった。長距離走も得意だったから、たとえ疲弊しても辿り着けるだろうとは思っていた。案の定、その通りだった。着くことはできた。すると帰り道のこと、予想外の感覚が押し寄せてきたのである。

道って全部繋がってるんだなって思った。

 感動にも似た、泡のような羽毛布団のような、そんな気持ちよさに全身が包み込まれた。脚の疲労や腕の重さが、「自分のもの」になっていくかのような、ある種のハイ。

 現代人にとっての距離感覚とは、すなわち時間である。そこに辿り着くまでに、どれだけの時間がかかるか、かかったか。共通の物差しとして、時間は便利だからというのもその背景にあるだろう。しかし「それでしか距離を計ることができない」とも言える。時間という尺度のそのハイスペックな互換性は、目的地まで何kmあるとか道の勾配が何%とか、そんなあれこれを実質的に無効にするのである。車や電車、飛行機に乗り込むことによって、僕らは地面から離れるのだから。

 したがって自転車で向かうことによって、僕は自らの身体で、それまで時間でしか計られなかったその距離を、直に実感したのである。誰かに説明できるものはない。ペダルの回転数がどれくらいというのでもない。筋肉と骨がギシギシときしんだその感覚。そしてその過程において、道は単なるスタートとゴールを結ぶ「通り道」としてではなく、時間と交換可能な平板なものでもなく、常に「現在地」であり続けた。現在地と現在地が繋がっていく。点の連続。それが〈道〉だった。

 道は全部繋がっている――。地図によって見下ろせば「当たり前」のそれは、自ら地べたを這うことによって、まったく異なる衣をまとって僕の前に現れたのである。

 

               ★

 

 少し整理をしよう。まず方向音痴さんと自分の比較をしてみると、どうやら、どのように「地図の示す世界」と「眼前の実世界」を往復するのかという点が、地図の使い方のポイントであるらしい。ただ、その地図のあり方として今日の主流であるGoogle Mapとその動作環境を支えるスマートフォンとの関係について考えてみると、松岡(2016)が指摘するように、僕らは「眼前の実世界」を歩いているはずが、「地図の示す(が自分の見たい)世界」に埋没している。

 「眼前の世界」とは、それ自体、無意味の塊である。ビルがあること、道路があること、木が生えていること。それ自体は何も語らず、何も意味を持たない。それに意味を与えるのは、それを読み取るのは我々である。要る/要らない、綺麗/綺麗じゃない、便利/便利じゃない、あってもいい/あるべきじゃない、公/私、渡っていいところ/わたってはいけないところ。意味や価値が付与された世界は、我々の中にある。

 問題はその意味/価値の読み取り方が、スマホGoogle Mapによってひどく個人化してしまっている点、すなわち「我々」が切り分けられている点にある。個人が個人の見たい世界を、Google Mapの中に見ては、町ではなく「その中」を歩く。無意味/意味の仲立ち、転換を担うのはいきなり個人となってしまう。それ以上でもそれ以下でもない。身体が土地から引きはがされ、世界がスマホに閉じこもることが前提にある社会において、もはや時間という共通の物差しによってしか、社会として空間/距離を把握することはできなくなっている。

 そのような議論を前提に、自分の「冒険」を考察してみると、それは時間感覚との関係において処理されていた距離感覚/空間感覚を、身体性によって自分のもとにグイッと引き戻す試みであったのかもしれないのだ。距離感覚/空間感覚を「自分のもの」にする。

 「眼前の世界」と「地図が示す(が自分の見たい)世界」の間に割って入る〈身体地図〉。環境社会学の質的調査は、そこいらの地図には示されず、またただまちをあるくだけでは見えてこないような、そんなその土地に住まう人々の〈地図〉を見いだすこと、それを「より良い社会」を構想する手掛かりとする。その世界の体系を、仕組みを地図から想像する。地図を眺めるのに夢中になっていた僕は、今、学問を通じて地図を描こうとしている。

 

3. 柏への通学

 僕はこの4月から、東京大学大学院 新領域創成科学研究科 社会文化環境学専攻(http://sbk.k.u-tokyo.ac.jp/)に所属している。本拠地は柏キャンパス。本郷(赤門のあるところ)と駒場に次ぐ三番目のキャンパスとして、1990年代末に構想された。研究科自体、1999年に開設されている。APUの前年である。

 参考までに以下の地図を見てほしい。東大柏キャンパス(★印)の最寄り駅は、秋葉原駅から北東方向に延びる「つくばエクスプレス(略称:TX)」の「柏の葉キャンパス」駅だ。煩雑になるため私鉄各線は除いているが、東京都心・千葉西部・埼玉南部における主要なJR各線との位置関係はよく分かると思う。

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 ちなみに赤い線が僕の通学路にあたるが、ご覧のとおり非常に長い距離を移動しなければならない。都心に出て、都心の北部をかすめて遠ざかるといった具合だ。時間に換算すれば、電車に乗っているだけで1時間20~30分、door to doorなら2時間は見込む必要がある。混雑時には息が詰まるが、本を読むには持ってこいだ。

 川と大地に着目してみれば、柏市は利根川と江戸川の間に挟まれた場所に位置する。ということは、縄文海進(縄文海進 - Wikipedia)においても陸地だった可能性があるわけだから、数千年前から人間が定住していたのかもしれないなあ、と考えてみたり。

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 ただ指導教員によれば、研究科開設当時、周りにはまだ何も無かったのだという。どこかで聞いた話に似ている(笑)が、2005年にTXが開通して以来、「柏の葉」地区は急速に開発が進んでいる。言うなれば、前回のブログで僕が「住みたくないまち」と豪語したような状態にある(笑)。まあ以下のとおりである。

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 ちなみに、柏市の概要は以下のとおりである。見てのとおり、東京のベッドタウンである。1960年代からの発展ということは、高度経済成長による「都市化」、それに伴う「郊外化」、ひいては「核家族化」と大きく関わっている。と考えれば、この発展史は何も柏市に限ったことではないだろう。首都圏に限っても東京郊外、千葉県、埼玉県、神奈川県で同じような地域が見られるに違いない。

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 市のホームページによれば、子育て世代の流入により、市人口は2025年まで増加傾向であることが見込まれている。しかし、それ以降は年少人口(0~14歳)と生産人口(15~64歳)が減少し、老年人口(65歳以上)が増加していくという。都市開発といえば聞こえが良いが、サステナビリティ/sustainabilityというものを市単位でどのように体現していくか、それは国単位でも重要な課題になってくるだろう。

 

                 ★

 

 この長い長い通学のあいだに読んでいる本、というか24日に別府から戻ってから買って読んできた本を紹介して、本ブログを締めくくりたい。

 

①『グーグルマップの社会学:ググられる地図の正体』

グーグルマップの社会学 ググられる地図の正体 (光文社新書)

グーグルマップの社会学 ググられる地図の正体 (光文社新書)

 

 本ブログでも幾つか引用した文献である。オーソドックスな社会学的な関心からGoogle Mapの位置づけと限界、そしてその可能性を議論している。社会学的に考えるとは何かを考える上でも面白い。身近な物事の自明性を、どう解体するか。読みやすく、そして丁寧な議論。面白いがすこし平板なので星4つ(★★★★)。 

 

②『四つのエコロジー:フェリックス・ガタリの思考』

 2016秋セメスター冬セッション、集中講義としてAPUに来学された上野俊哉氏の文献。氏は日本におけるカルチュラル・スタディーズカルチュラル・スタディーズ - Wikipedia)の第一人者であるが、ご自身は狭義のカルチュラル・スタディーズからは距離を取っているという。この本と氏の講義から考えたことについては、前回のブログでも少し触れた。非常に難解な概念がいくつも出てくるが、フランス現代思想の一端に触れる上でも面白いのは確かである(★★★★)。

 

③『アースダイバー』

アースダイバー

アースダイバー

 

  今日における「地図を片手にまちあるき」ブームの先駆けとなった本。そういう意味ではブラタモリの親にあたるかもしれないけど、今回は星3つ。非常におもしろいんだけど、なんせ感覚に訴える部分が大きくて、、、知識を他の文献等で補完しつつ読みたいかなぁという感じ。いや気軽に読む分には、きっと面白い(★★★★★)。

 

④『LGBTを読みとく:クィア・スタディーズ入門』

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門 (ちくま新書1242)

 

 学部のゼミで研究対象とする後輩たちが多く、しかもそれらが非常に面白い着眼なので、改めて概要をおさえたいと思ったので手に取った(実は学問的には、環境の議論にも性の議論は密接に絡んでくる)。APUで展開されるジェンダー論の講義のおもしろくなさは、旧来のフェミニズムへと今日的なLGBTの議論との断絶に由来するのではないか、とかとか、考えつつ読んでいる。ジェンダー論とセクシュアリティ論、ここのあたりをもう少しクリアにしておきたいなぁ。ともあれ、差別/偏見という近代社会において非常に普遍的/身近なテーマを明快に、しかし慎重に言葉を選びながら力強く議論を展開する点に好感が持てる(★★★★)。

 

⑤『現代思想三月臨時増刊号 第四五巻第四号:人類学の時代』

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

 

 残念ながらまだ拾い読み程度なので、評価はしないことにします。ちなみに同じく現代思想の『人類学のゆくえ』はお勧めします。特に冒頭の、上橋菜穂子中沢新一の討議。フィールドにどう入るか、物語をどう書くか。重厚だったなぁ。もう一回読もうっと。

 

⑥『中動態の世界:意志と責任の考古学』

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 日本で英語を勉強した僕にとって、あまりにも自明となっている能動態と受動態、そしてその使い分け。この表現から漏れ落ちるもの。言葉が届きやすい媒体を身近に持ちつつ、言葉に鈍感な今日、歴史から言語学から「中動態」を探求する本書。デリダアレントらが登場しつつ、「意志」というこれまた僕らがアタリマエに用いる概念を解体する。以下の二冊とセットで読んでほしいこの春おススメの一冊(★★★★★)。

 

⑦『勉強の哲学:来るべきバカのために』

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 勉強という行為について、ここまで正面切って哲学的に、しかし平易な言葉で説いた本があっただろうか。学部時代に読みたかったなぁ。でも院生生活が始まったこの4月に手に取れて、本当に恵まれているなと思う。その辺の軽薄な自己啓発本との差別化はもちろん図りつつ、実践的な部分も漏らさず。ちなみに10ページほどの序章は、以下のリンク先(『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉雅也 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS)で立ち読みできるので、ぜひここだけでも読んでみて欲しいなと(★★★★★)。

 

⑧『ゲンロン0:観光客の哲学』

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

  これは本当に面白かった!『勉強の哲学』と一緒にフライングゲットした本です。こんな買い方は初めてだったし、内容も期待以上だった。グローバリズムナショナリズムが二層構造的に共存する今日の予測不可能で不安定な時代状況を、リバタリアニズムリベラリズムという思想・哲学を手がかりに、しかし氏の「超要約力」を以て、実におもしろく議論が展開されている。第一章の「観光客の哲学」、第二章の「家族の哲学」。この一見繋がりの見えないタイトルが、ぐぐぐっと最後にまとめ上げられている様は圧巻である。もしも「この8冊の中で1冊だけを選べ」と言われたら、この現代を論じる本書を、同時代を生きる方々に是非とも読んでほしいと思う(★★★★★)。

 

以上

               ★

追:

 『精霊の守り人』は、『攻殻機動隊』の神山健治を監督に据え、アニメーションをProduction I.G.を中心としてアニメ化されている。僕はこれはとても良い作品に仕上がっているので紹介したいなと思っていた。法的にはNGだがYouTubeに全話アップされている。便乗してここに第1話を貼ってしまおう。

 原作へのリスペクトを欠かさないばかりか、アニメーションだからこその表現が追求されている。自然の描き方、殺陣を始めとするアクション、非常にハイクオリティである。NHKのドラマ版よりも何万倍も好きである。

www.youtube.com