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炉辺を囲むように。

023:卒業論文を一旦書き終えて思うこと

「それ、何の役に立つの?」

 

他人に訊ねられるか、あるいは自問するか、

いずれにせよこの言葉はもはや呪詛である。

 

呪詛、じゅそ、ジュソ。

 

昨年話題になったドラマ『逃げ恥』の、

ゆりちゃんの台詞が印象的だったから、

ここでも「呪い」という表現を使いたい。

 

この世の中に溢れている「ものの考え方」として、

「役に立つか否か」という尺度が挙げられる。

 

これは「有用性」とも言い換えられる。

「行為Aの外に何らかの目的Bがあって、

Bを達成する手段としてAがなされる」

と解釈するとき、行為Aは有用であると言える。

 

例えば、僕がこうしてブログを書くことについて、

仮に僕が何も目的を持たずに書いているとしたら、

それは目的達成の手段ですらないということになり、

「何のためにやってるの?」と問い質されてしまう。

 

繰り返すが、僕たちの周りはこの尺度で溢れている。

 

この記事を彼女の部屋で書いているが、見渡してみても、

マグカップ、リモコン、コンタクト洗浄液、ティッシュ、

テレビ、ベッド、服、ハンガー、パソコン、スマホ、etc.

 

何らかの目的達成を念頭に開発されて、

これは「売れる!」と判断されて店舗に陳列され、

そしてそれを目当てに購入したものたちばかり。

 

例えば僕に音楽のセンスがないから、

YouTubeで「作業用BGM」と検索して、適当にかける。

何らかの作業を効率的に遂行するための一つの手段として、

Jpopや洋楽を聴く。いや「聞く」、むしろ「聞き流す」。

 

〈有用性の海〉は浮かぶにはあまりに心地よい。

酸素が肺を満たしては全身を駆け巡るように、

有用性は脳の隅々にまで浸透し、侵していく。

 

G・バタイユ(1897-1962)というフランスの哲学者は、

この有用性に対して「至高性」という概念を提示する。

参考までに、以下のブログを参照してもらえればと思う。

 

dameinsei.hatenadiary.jp

 

 

未来に得られる利益を念頭に、現在の時間を使っていく。

そのような有用性の海に生きるという意味において、

そのような行為は「隷従的」なのだということになる。

だからこそ、

バタイユは至高性に着目し、その意義を説く。

 

さて、僕はきちんとバタイユを読んでいないので、

バタイユを論じたり、それに依拠するのはここまで。

ただ、「それ、何の役に立つの?」という冒頭の言葉を

僕が呪いと称する理由は、お分かりいただけたと思う。

 

この年末年始、東京の帰省して、横浜の祖父母宅を訪ねた。

僕は気が重かった。何故かって?

 

「大学院進学おめでとう」

「ありがとうございます」

「大学院では何を勉強するの?」

「卒論では〇〇をしてて、その延長で」

「へぇ。。。何かおもしろそうだね」

 

 「。。。」の中身は推察するまでもない。

 

大学院で所属する研究室は「環境倫理学環境社会学」。

環境という接頭辞こそあるが、自然科学ではない。

 

周知のとおり、人文・社会科学の学問分野は、

学部廃止云々(うんぬん、ね)と主張されるほどに、

有用性の尺度ではクエスチョン・マークが浮かびやすい。

 

とはいえ、2016年、ノーベル賞を受賞した大隅教授が

「基礎研究が軽視されている」と警鐘を鳴らしたため、

何も人文・社会科学に限った話題ではないのだとは思う。

 

言い換えれば、

「役に立つ/立たない」という有用性の傘は

学問の領域にもことごとく覆いかぶさっている。

 

大学進学率が上昇し、それを「大学の大衆化」と呼ぶが、

それによって大学は、「高校⇒大学⇒仕事」という

一連のプロセスの中に位置づけられていった。

 

したがって、研究機関という性格に加えて、

「立派な社会人」を育成するための教育機関、

あるいは人材育成機関としての機能も付与されてきた。

 

そして、このような社会的背景・社会規範は

「有用性/非有用性」の尺度と非常に親和性が高い。

 

だからこそ僕らは、幸か不幸か、

知らず知らずのうちに損得勘定をして、

数々の講義や教育プログラムの中から、

Betterと思われる選択をしていく。

 

費やしたい時間と費やさなければならない時間、

学びたいことと学べる(とされている)こと、

様々なものを天秤にかけては、吟味を繰り返し、

自分の「未来の利益」のためにジャッジを下す。

 

では「ゼミに入って、卒業論文を書く」とは何か。

APUにおいて卒論は、卒業必須単位ではないから、

まさにその天秤にかけられる対象となることだろう。

 

たとえば、自分は修士課程に進学をする。

だからそういう意味において卒業論文を書くことは、

必須であり、また「有用」な手段であると言えよう。

就活生がTOEIC高得点を目指して、勉強するような、

そんな感じだ。

 

しかし、だからといって、何も僕は卒論に対して

「隷従的」に取り組んできたのではない。

 

「自分の将来に役立つから」とか、

「社会に貢献できるから」とか、

有用性で以て意義を見出したわけではない。

有用だからと、モチベートされてもいない。

ただただ、単純に「おもしろい」からである。

だからこそ、続けてこられたように思う。

 

結論から言えば、本質的な「学び」を目指すなら

有用性の呪いからは、逃げてしまった方が良い。

 

あなたは「自分の人生」を歩むつもりでいるのに、

誰かの求める人生や、社会の求める「正解」を、

なぞっていくことになってはいないだろうか。

右派/左派とか、イデオロギーの面倒臭さはそこにある。

「自分の言葉」のツラをかぶった誰かの言葉になる。

 

人文・社会科学は一見すると役に立たない。

しかしその有用性の尺度は、誰かのものである。

親類や友だちやテレビが作り出した規範のものである。

だからこそ「大学で勉強することの意義」は、

自分で、自分の言葉で創出していかなくてはならない。

これは勉強/研究に限らず、何においても同様だろう。

 

有用であることをモチベーションにして

その行為を選択するのは、確かに楽チンだ。

しかし、それは自分を商品化することと同様だ。

僕はそのように思えてならない。

 

「おもしろい!」「やりたい!」から始めること。

非目的的に、つまり目的が手段を先行しないこと。

だが、同時に手段を目的化しないこと。

エモーショナル/主観的な沸騰を原動力にしながら、

ロジカル/客観的な意義の創出を推進力にすること。

この往復を忘れないこと。

 

社会が歴史と共に建造した〈有用性の船〉は、

〈有用性の海〉を生きるには快適で便利だろう。

しかし、その〈船〉は帆を持たない。

羅針盤もなければ、錨もない。

潮と風の吹くままに、

呪われた〈有用性の海〉をさまようだけである。

 

小さくてもいい。

ゆっくりでもいい。

 

自分の言葉で、〈自分の舟〉を編もう。

そして帆を張り、錨を上げよう。

時には錨を降ろして、休むのもいい。

帆をたたんで、櫂を漕ぐのもいい。

 

自分の言葉で進んでいく。

それが「大学で勉強する」ということである。

僕はそう思う。

 

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冬の気仙沼漁港。(撮影:本人2016/11/28)