the INGLENOOK

炉辺を囲むように。

020:「それっぽい言葉」を掲げて、上滑りする前に

今回は書き出すことにした。

ただただ書くことにした。

 

僕にとって等身大で、

僕にとって「リアル」な、

あの出来事をとらえないかぎり、

そこに準拠しないかぎり、

何も語れないと思ったから。

 

 

1. なゐ揺る、なみ駆る

 

その日は金曜日だった。

その前の週に行われた先輩たちの卒業式の振り替えか何かで、高校は休みだった。

 

午後。

 

僕は、家から15分ほど自転車を飛ばしたところにある本屋にいた。

4月から受験生だからと、学習参考書を探しに行っていたのかもしれないし、

小説か漫画を眺めていたのかもしれない。

少なくとも当時は、今大学で読んでいるような学術的なものとは縁遠かった。

 

書店という静かな空間ということもあり、異変をすぐに察知した。

細かな揺れが脚を伝う。

次第に大きくなる。

本が何冊か、飛び出してくる。

 

すぐにニュージーランドのニュースが思い出された。

その3週間ほど前、クライストチャーチという町で多くの犠牲者が出ていた。

古い教会が倒壊し、語学留学に行っていた日本人の若者の命が失われた。

それもあって、連日報道が繰り返されていた。

そのように記憶している。

 

ともあれ、閉じ込められては敵わないと思い、出口へと急いだ。

しかし書店から出るのをわずかに躊躇う。

その書店は地味に高めのマンションの一階部分に相当していて、

不用意に飛び出せば、頭上に落下物があるかも分からなかったからである。

 

しかし背後で店員が「早く出てください!」と急かすから仕方がない。

彼も避難したいに違いなかった。

頭をバッグで覆い、えいっと歩道に出て、

その足でそのマンションから距離を取った。

 

辺りに目をやると、片側二車線のその道は騒然としていた。

歩道には建物から出てきた人々が溢れかえり、

乗用車は何事かと停まって様子をうかがっている。

そして、足下のアスファルトは波を打っち、ビルは大きく揺れていた。

まるでその奥からゴジラがずーんと進んでくるかのようで、

「これが現実か」と我に返る間もなく、それは静かに猛った。

長く、短い時間だった。

 

いよいよ首都直下が来たか、と腹をくくった。

とにかく携帯電話のワンセグを起動する。

アンテナを立てて、スピーカーに耳を当てる。

周囲は行き交う人々の声でうるさい。

耳に入って来たのは、「震源地は東北の沖合」という言葉だった。

 

驚いた。

遠くなればなるほど震度は弱まっていくのにも関わらず、

東京であれだけ揺れたのだ。

宮城や岩手は、きっと大変なことになっているに違いない。

 

とにかく家に帰ることにした。

自転車をこれでもかと飛ばしに飛ばして自宅に戻ると、玄関先に母がいた。

僕が夢中で走っているあいだに、どうやら大きな余震があったらしく、

それを怖がって家の外に出ていたらしい。

 

家に入ると、逃げ道の確保のためか、窓は全部開け放たれていた。

テレビはすでに点いていて、NHKのアナウンサーが声のトーンを上げている。

じきに弟が帰ってきたが、それと津波の映像の到着はほぼ同時だった。

 

それは圧倒的な衝撃だった。

その衝撃ゆえに、ここまで述べてきた一部始終の出来事は、鮮明に記憶された。

まるでスローモーションのように、においも音もセットで、

今でもはっきりと思い出すことができる。

 

テレビの画面の中で、

水のかたまりがビニールハウスを押しつぶしていく。

 

明らかに人が走るよりも速い。

画面からぬぅっと何本も腕が伸びてきて、僕の頭をおさえつけた。

目を逸らすことを許されなかった。

 

 

2. ふさいだ耳、見ひらいた眼

 

たくさんの帰宅困難者が出た。

首都機能が麻痺していたからだ。

父は確か、徒歩で都心から二、三時間かけて帰ってきた。

歩道は帰宅する人で溢れ、歩きにくく、精神的にも相当なストレスだった。

そのように述べていたような記憶がある。

  

部活の後輩を通じて、デマも回ってきた。

そしてそれに加担した自分がいた。

英会話の先生、当時別れたばかりの同級生、中学校時代から親しい人たち、

色々な人たちに連絡をとり、安否を確かめた自分もいた。

東京にはもちろん津波の心配こそなかった。

滅多なことがない限り、命が危険にさらされることはない。

しかしやはり駆り立てられた。

感情が理性を超えたというか。

ただ唯一、情報のリテラシーに関しては、あれを機に強く肝に銘じている。

 

情報といえば、土日のうちに原発があのようになった。

当時は、本当に情報が錯綜していた。

メルトダウンしてるのか否かとか、放射能漏れがどうとか、

とにかく訳が分からなかった。

 

そして僕は、耳を塞いだ。

 

耳を塞いだのである。

 

今でも分からない。

何故そのような行為に出たのか。

何故知ろうとしなかったのか。

知ろうとしても、その情報が信頼できないからか。

 

ただの無関心か。

自分には関係ないと思ったのか。

知ったところで何もできないと諦観していたのか。

それとも、ただただ混乱していただけなのか。

現実として受け止めたくないと目を逸らしたのか。

 

とにかく僕は原発事故を注視しなかった。

ただ代わりに何かを知ろうとしたわけでもない。

それだけは覚えている。

なぜなら何も覚えていないからだ。

 

何をあのときに考えていたのか。

何を考えていなかったのか。

それらに関する記憶が無いのは、

おそらく考えていなかったからだろう。

 

僕の記憶はけっこうシンプルだ。

一度立ち止まって考えたときの思考の足跡が、

それに伴って芽生えた感情をインデックスとして収納される。

でも今探ってみても見つからない。

だから僕は、あの時の僕の姿勢に後ろ指をさしている。

 

でも同情の余地もある。

 

何もリアルとして受け止められなかった。

あの揺れの感覚以外に、

「何人が行方不明で、何万戸が全壊」と報道されようと、

当時の僕が実感として把握できる範囲を

とうに超え出ていた。

 

しかしある日、朝日新聞の紙面に大きな写真が掲載されていた。

僧侶が手を合わせている背中。

顔は見えない。

その向こうには画角に収まりきらない瓦礫の山。

その中には、誰かの生活の形跡が見て取れるものもあった。

彼の足元はぬかるみ、泥で汚れていた。 

 

僕は改めて突きつけられた。

そしてようやく思いを馳せることができた。

波にのまれた人、のがれられた人、失った人の存在に対して。

幾千の文字よりも、一枚の写真がより多くを語ったのである。

 

そのときの感情はとてもよく覚えている。

 

 

3. ズルをした朝、想い歩いた夕方

 

土日が明けて、学校に戻る。

通学だけでも一苦労だった。

電力の関係か何かで、電車は間引き運転が行われた。

ただでさえいつも満員電車なのにも関わらず、

間引きされたせいで超満員。

なかなか乗ることができない。

 

飲料水や飲食物に対する過剰な需要に供給が追い付かいていなかった。

コンビニは閑散としていた。

東京、とりわけ都心は本当に弱い。

田畑もろくになく、ほぼ全てを物流に委ねている。

 

ともあれ、やっとのことで高校に着く。

クラスメイトから、ディズニーランドで夜を明かしたという話を聞いた。

部活等で学校にいた同級生の何人かは、高校に泊まらざるを得なかったとか、

備蓄していた食糧があまり美味くなかったとか、

夜は寒かったとか。

また母校は明治通りという環状道路に沿っていて、

帰宅者たちが近所のセブンイレブンにゴミを大量に捨てていくのに見かね、

アメフト部員たちがその清掃を手伝ったとか。

各々が、各々の「被災」をしていた。

 

そして話題はやがて、

数日後に控えていた関西方面への修学旅行の方へと収斂する。

関西といっても、京都・大阪がメインである。

新幹線で行く予定になっていた。

しかしこの土日あたりで、

富士山付近を震央とする不吉な地震も起きていたりと、

西へのルートもどうなるか分からない状況であった。

そんな記憶がある。

 

当時、母校の宿泊行事は二つ。

そのうちの一つは高一の秋に催されるはずであった。

しかし当時猛威を振るった新型インフルエンザと、

それによる欠席者や学級閉鎖等の事情を鑑み、

最終的に校長より中止の決定が下る。

 

数人の有志が代表して校長室まで直談判まで行うも、決定は覆らなかった。

校長にとっても苦渋の決断だったと伺っている。

好きこのんで学生が楽しみにしている行事の中止を言い渡しはしないだろう。

 

ともあれそのような経緯から、当時のような混乱の極みにあっても、

生徒に限らず、教員のなかでも「行かせてやりたい」という思いはそうだ。

そして最終的に以下のような決定が下る。

 

修学旅行の二日前に、大きな荷物は先に回収し、宿泊先に送ることとなっている。学校への集合時間は午前〇〇時。それまでに全員が登校し、荷物を預けることができたら、修学旅行の朝、たとえ間引き運転等の首都機能の麻痺があっても、どうにか東京駅に集合できると判断する。もしもそれに誰か一人でも間に合わない場合、安全を考慮し、修学旅行は執り行わないこととする。(記憶を頼りに書いてみる)

 

各々、葛藤はあっただろう。

行くべきか行かざるべきか。

僕のなかにも多少あった。

しかし少なくとも、

条件付きで行くという方向で決定が下ったのだ。

頑張らない訳にはいかない。

 

しかし相変わらずの麻痺ぶりは、その日の朝も健在であった。

しかも駅員が改札の前で入場制限をかけている。

その後ろには、文字通り長蛇の列。

全く動く気配がない。

よく見ると、どうやら上り電車を利用する人たちばかりが並んでいる。

下り電車の利用者は、並ばずにそのまま改札を通っていく。

そして下り電車用のホームへと降りていった。

 

僕は申し訳ない気持ちもあったけれど、ここでズルをすることにした。

 

並んでいたら間違いなく間に合わない。

そのように判断して、下り電車を利用すると装う。

つまり改札を平然とした顔で通過し、一旦下り電車用のホームへと降りたのだ。

 

そして待った。

下り電車が来るのを少し待った。

きっと何人かの乗客が電車から降りて、改札へと向かっていくに違いない。

その人混みに紛れて、僕も一旦改札付近まで上がり、

そして人混みのどさくさ紛れに上り電車用のホームへとつながる階段に滑り込もう。

そのように考えた。

 

結果として上手くいった。

あとは上りの電車に乗るだけだ。

ホームに並ぶ。

前に四人ほどがいる。

電車が来る。

すでに超満員である。

乗れたのは、列の先頭にいた一人だけ。

同じようなことが二、三度続いた。

駅に着いてから一時間ほどで、ようやく電車に押し入ることができた。

送るための少し大きめの荷物と一緒に、

申し訳なさそうな顔をしてお尻から人の壁に割って入った。

 

窮屈さは通常の比ではなかった。

身長が170cm後半だから良いようなものの、

小柄な人ならば窒息していたに違いない。

混乱に乗じてセコい真似をしたが、

ともあれ学校には無事に着くことができた。

そして同級生たち全員が、時間内に登校することができたことを聞いた。

修学旅行は敢行されることとなった。

 

その日の帰り、僕は歩いて下校することにした。

電車で約30分かかる道のりである。

同じ方向の友人がいる。

一年生のとき、

文化祭の運営委員を共に務めて以来の仲である。

彼とはよく一緒に帰りながら、

くだらないことや世の中のことを語り合っていた。

 

確か僕の方から持ち掛けたと思う。

「また同じようなことが起きないとも限らない。

帰宅困難者になったと想定して、

学校から家まで歩いて帰らないか」と。

彼も二つ返事でそれにのった。

 

あの日、僕は本屋にいたが、彼は群馬のスキー場にいたらしい。

彼も北関東直下かと思った、それぐらい大きく揺れたと語っていた。

様々な話をしながら歩いた。

二、三時間歩いた。

家に帰ると脚はくたくたになった。

 

 

 

帰途において、町並みは至って普通だった。

いつもどおりアスファルトは固く、石塀は頑丈だった。

それらを一瞬で無力化する水を、僕は想像できなかった。

でも想像するよう努めた。

 

大事な人の手を引きながら、

もしくはどこかで無事でいることを信じながら、

もしくは「逃げろ」とすぐに強く言わなかったことを悔やみながら、

背後に迫りくる波から逃げることを想像した。

 

でも彼らと真に痛みを分かち合うことなど、きっとできない。

ましてや翌々日に、関西へと遊びに行く身である。

だから僕にできることは、できるかぎりの想像を膨らませること。

適切に恐れ、適切な備えをすること。

それしかない。

そのときはそう思った。

だからせめて、歩いて帰ろうと思った。

 

 

でも未だに答えは出ていない。

緊急事態において、どこまで利己的になることが許されるのか。

僕の場合はたかだが電車に乗るためだったけれど、

たとえそれが自分の命がかかっているとしたら。

もし何かと天秤に欠けなければいけないとしたら。

 

あの日。

たくさんの人が手を思いっきり伸ばして、引き留めようとしたに違いない。

そんな人たちのことを思うと僕には

「〇〇を守る」とか「誰かのために」なんて言葉

とてもではないが軽々しく言えるとは思えない。

リアル。

説得力。

残酷さも何もかもが混ぜ込まれた「現実」に裏打ちされていない僕の言葉に、

血が通っている訳がないのだ。

 

 

4. 重たい腰と、「分からない」

 

修学旅行は無事に執り行われた。

 

西日本においてもテレビ・コマーシャルはACで溢れ、

「楽しい仲間がぽぽぽぽーん」と歌いあげていた。

棚が満杯のコンビニを見て、感動したのを覚えている。

感動というと語弊があるか。

「これがアタリマエだったのか」と気付かされたというか、

思わず見入ってしまった。

そして神社仏閣で手を合わせるとき、

東北の方へと思いを馳せていた自分がいた。

 

そして、春休み。

 

災害ボランティアに行くこともできたな、と今では思う。

しかし当時、腰は上がらなかった。

泥をかき出すたくさんのボランティアたちの姿を、夕飯を食べながら観ていた。

「おいしい、おいしい」と思いながら、

数あるニュースのひとつとして、

そのテレビの映像を観ていた。

そのやるせなさ、空虚さに気づきつつ、

でも「自分も行く」とはならなかった。

 

自分のアタリマエに、僕はしがみついていたかったんじゃないだろうか。

 

花見をする習慣はもともとないけれど、

でも自粛は意味がないと、そのときから思っていた。

だってきっといずれ花見は再開するのだし、

二年後、三年後に再開するって、

それはつまり何かを忘れるということの表象なのではないか。

何にもしていないくせに、一丁前にそんなことを考えていた。

 

 

休みが明けて、受験生になった。

担任もクラスメイトも変わらない。

 

 

「あれから約1ヶ月経つけど、心境や価値観の変化は何かあった?」

 

 

担任との二者面談で尋ねられた。

担任の専門は現代文。

先生の授業方法には随分鍛えられたと思っている。

とりわけ「書く」ということ、アウトプットについて。

言葉にすることの大事さは、ひとつには彼から学んだことでもある。

だからだろう。

生徒一人ひとりにその質問を投げかけているのだという。

 

僕はそのとき「分からない」とだけ、まるで独り言のように応えた。

それは本心であった。

当たり前がアタリマエでしかないことは悟った。

備えが必要なことも分かった。

しかし明確に、それ以前と以後の比較をすることはその時点ではできなかった。

 

もし何かを掴んでいたら、高3の映画作りではそれをモチーフにしたことだろう。

でもそうはならなかった。

けれど、やはりこの「分からなさ」だけは切実だったなと思えば、

今あの時に戻って撮り直すとしたら、

きっとその「分からなさ」をキーワードにしただろうなと思ったり。

 

その「分からない」という感覚は、

今でも尾を引いている。

そのため僕は、

ここまでの経緯を長々と書き出すことでしか、

あの時のことを語ることはできない。

でも、きっとそこにしか、

そこにしか僕にとっての3.11のリアルはない。

ないのだ。

説得力が。

良くも悪くも。

 

 

5. 思い出す、共有する

 

2016年のその日、その時間、僕は東京の地下を歩いていた。

日本橋から大手町に行く途中の地下道である。

その一分間、日本中の様々な場所で黙祷が捧げられていたのだろう。

サラリーマンたちとともに歩を進めていた僕にとってのその一分は、

ただの秒針の一周としての意味しか、

次の電車が来るまでの一分としての意味にしか過ぎなかった。

 

そのように見えた。

そんな気がした。

 

 

 

思えば2014年の今日は、

宮崎県日南市の鵜戸神宮にて、その時間を迎えた。

目の前にはどこまでも拡がる青く美しい海、

眼下には岩に打ち付けている白波。

3月にも関わらずマンゴーアイスの屋台が様になるくらいの陽射し。

五感を広げるには絶好の場所、タイミングだった。

 

お参りを済ませ、そんな光景を眺めていた。

すると、にわかにサイレンが鳴り始める。

周囲の複数人が徐々に歩を止める。

共に頭を垂れて、目を閉じる。

波の音とサイレンの音が混ざりあって、

そして消えていくのが聞こえた。

 

聞こえた。そんな気がした。

 

 

 

 

口では何とでも大きいことは言える。

何とでも呟ける。

今日のツイッターのトレンドは「偽善者」だった。

3.11について語ることと偽善についてのつぶやきの渦である。

 

 

 

 

「忘れない」と耳にする。

 

 

でもその前に僕は、

「自分にとっての、等身大の3.11をきちんと思い出すこと」、

これがまず何よりも大事だと思った。

 

 

それがきっと各々の「リアル」を描きだし、

それがきっと各々の生き様に説得力を与えていく。

 

 

遠くのことに、

大きなことに、

「みんな」の方に思いを馳せるばかりではなく、

そこで正しさを考えるのではなく、

安易に一般化するのではなく、

まずは足下から。

 

 

そこを見失わないこと。

 

 

僕にとっては、あの大きな揺れという恐怖の実体験を、

テレビの中の黒い波、そして数値でしか表れない放射線に対する恐怖心が、

超えてゆけるとはどうしても思えないのだ。

 

しかしだからこそ、

自分自身の強烈な揺れの記憶と向き合うからこそ、

どこかの誰かの痛みにも向き合うこと、

寄り添うことを許されるのではないか。

 

 

あのとき重い腰が上がらず、耳をふさごうとしたこと、

そんな事実と向き合うことこそ、

そんな「弱さ」と向き合うことこそ、

「何だかそれっぽい言葉」を探してポーズを取る前に、

今の僕には必要なのではないか。

 

 

だから今回は、

ただただ書き出して、

それをこうして共有することにした。

 

 

何を経験したのか、

そのとき何を考えたのか、

そして何ができなかったのか、

しなかったのか。

 

 

足を「あの時」に置いてみる。

何とでも言える「今」ではなく。