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炉辺を囲むように。

019:「断片的なテントウムシ」

1. 「すごもりむし とをひらく」

 今日(3月3日)はいわゆる桃の節句でしたが、明後日(3月5日)はといえば、「二十四節気/にじゅうしせっき」のひとつ、「啓蟄/けいちつ」です。

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 二十四節気とは、文字どおり1年間を24等分した暦のこと。ひとつあたりの長さは、単純計算で(太陽暦における)1か月の半分、つまり約15日分に相当します。そしてこれをさらに3等分した「七十二候/ななじゅうにこう」という区分があります。

 

 たとえば明後日より始まる「啓蟄」は、七十二候より「蟄虫啓戸/すごもりむし とをひらく」「桃始笑/もも はじめてさく」「菜虫化蝶/なむし ちょうとなる」の3つによって、5日ずつに分けられます。いずれも風情豊かな情景を喚起させます。春はもうすぐそこです。

 Wikipediaにこの七十二候をまとめた表があるので、ぜひそちらも見てみてください。昔の人々が草花や空気の変化を観察し、それをもとに時間の経過を肌で感じ取っている様子が大いに想像されます(参考:七十二候 - Wikipedia、ちなみに二十四節気はこちら→二十四節気 - Wikipedia)。

 

 さてこの「啓蟄」及び「蟄虫啓戸」、意味としては「冬の間、土の中で眠っていた虫たちが地上に這い出てくる」となるでしょうか。啓戸、戸を啓くとは、まさに言い得て妙だと思います。

 冬の間に眠ることを冬眠と呼ぶことは周知のとおりだと思いますが、一度Wikipediaでその定義を見てみる(論文じゃないから許して笑)と、以下のようになるそうです。

冬眠(英:hibernaiton)とは、狭義には恒温動物である哺乳類と鳥類の一部が活動を停止し、体温を低下させて食料の少ない冬季間を過ごす生態のことである。広義では変温性の魚類、両生類、爬虫類、昆虫などの節足動物や陸生貝などの無脊椎動物が冬季に極めて不活発な状態で過ごす「冬越し」のことも指す。(冬眠 - Wikipediaより)

 まあ僕は生物とか生態とか、そういう方向は専門ではないものですから、この手の定義についてとやかく言うことは断固避けようと思います。さて広義では昆虫の冬越しも冬眠に入るとのことですが、昆虫の冬越しといっても、卵の状態で越冬するのか、幼虫の状態か、蛹か、それとも成虫かというように、色々な形態があることは僕でも想像がつきます。たとえば思いつくのは、カマキリの卵、カブトムシの幼虫、ガの蛹(繭?)、オオムラサキの成虫といった感じでしょうか。

 

 その中でも今回少し触れたいのは、テントウムシテントウムシは成虫が冬越しします。 たとえば以下の写真。それぞれ模様が少しずつ異なりますが、全部ナミテントウという種類だそうです。(MASATOの絵日記: ナミテントウより)

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 やはり昆虫にとっても寒さは大敵のようで、それから身を護る方法として(1)血液が凍らないようにする、(2)血液が凍っても細胞が破壊されないようにする、という二つの方法があるといいます(『むしコラ』 ナミテントウの越冬場所より)。またこの左の記事を読んでいて驚いたのが以下の部分です。

昆虫の血液はだいたい-2℃くらいで凍りはじめます。体が凍結しにくい昆虫は、血液中に不凍液の成分(グリセリンやトレハロース)をため込む、氷の核となる物質を減らす、氷の結晶成長を抑える物質を増やすなどの仕組みをもっています。一方、体が凍っても生きていられる昆虫は、細胞内に氷ができないよう-5~-10℃くらいの温度で細胞外凍結をはじめる仕組みをもっています。テントウムシは体が凍りつかない仕組みをもっており、ナナホシテントウは-20℃くらいまで凍結しません。テントウムシは寒風が直接当たらない場所で越冬しますので、冬の寒さには十分な耐寒性を備えています。

 いやぁ、おもしろいですね。あの小さな体にそんな仕組みが入っているとは思いもよらず感心しっぱなしです。他にテントウムシというと、たとえば人間との関係においては生体農薬として利用(農作物に被害をもたらすアブラムシを食べてくれる)したりというのが思い当たりますね。

 

 ちなみにテントウムシというこの和名。彼らの、飛びたつときに枝の一番高いところまで登っていって、そこから翅を広げるという習性(手にのせても、上に伸ばした指先までせっせとよじ登ってから飛んでいきますよね)に由来するそうです。つまり「天の道、太陽の方向を教えてくれる虫」という意味で、天道虫/テントウムシとなったそうな。

 ただ諸説あるようで、また他の文化圏では由来がやはりことなるようです。詳しくは「テントウムシ(天道虫)って英語でLadybird(Ladybug)とはどうして? Jackと英語の木/ウェブリブログ」を参照してください。おもしろい話が盛りだくさんです。

 

2. 断片的なもの

 何気ない日常の中に何かしらの価値を見出すことは、とても難しいことだと思います。「日常の中に何かしらの変化を見出す」までは比較的容易いように思えるのですが、たとえば七十二候の命名法がそうでしょうし、髪を切った、新品の服をおろした、色々と変化には気づきやすいものです。

 でもその変化そのものに、その変化してゆくさまを巨視的にとらえて、「いいなぁ」とか「大事にしよう」と、価値づけていく行為は意識的/能動的になされないと難しいように感じられます。ついつい見逃しがちです。そしてそれらを失ってから、その価値に気がついたりします。だからBUMP OF CHICKENの「supernova」はとても好きです。YouTube貼っちゃいます。


【卒業ソング】 BUMP OF CHICKEN 「supernova」 2005

 話を戻すと、そういう意味で、今の時代はそういった「何気ない日常の価値づけ」が非常にインスタントにできるようになっています。FacebookTwitterInstagramなどを通して、日常の出来事や自身の考えたこと、写真や動画など、「それ自体には一銭の価値も無い」はずののものが、いいね!やリツイート等をされることによって、そういう意味での価値が発生するようになります。

 

 でも世の中には、そうやって(ネット空間という意味での)公共の場に現れていなかったり、言葉にされていなかったり、誰も見向きもしないような、もはやその存在にすら気が付いていないような、そんな「日常」がおそらく無数に転がっています。(仮に誰もその存在に気が付いていないとしたら、それを「日常」と名付けることが可能なのか、無数に転がっていると言い切れるのだろうかという疑問は、まあちょっとこの際、脇に置いておかせてほしい)

 

 先日、『断片的なものの社会学』(岸政彦、2015、朝日出版社)を読みました。その本の奥付けによれば、著者は龍谷大学社会学部に所属し、「沖縄、被差別部落、生活史」というテーマで研究をされているようです。

 

 「学者が書いた『社会学』の本」と聞くと、ちょっと身構えてしまう方、敬遠される方もいるかもしれませんが、この本はエッセイ集だと思ってください。帯にも書いてあります、「社会学者が実際に出会った『解釈できない出来事』をめぐるエッセイ」と。

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 著者は、自身の社会学者としての仕事(調査地に赴き、様々な人にインタビューをすること)とそれに関するある思いについて、以下のように綴っています。

 こうした断片的な出会いで語られてきた断片的な人生の記録を、それがそのままその人の人生だと、あるいは、それがそのままその人が属する集団の運命だと、一般化し全体化することは、ひとつの暴力である。

 私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力とは無縁ではいられない、ということである。社会学者がこの問題にどう向き合うかは、それはそれぞれの社会学者の課題としてある。

 社会学とはこのような仕事なのだが、その仕事を離れて、聞き取り調査で得られた断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片に、強く惹かれるときがある。(pp.13-14)

 勉強になります。このあと、便宜上で十五に分かれた各章で、岸さんが出会った「断片的なもの」が記述されています。どれも非常に興味深いのです。あっという間に引き込まれ、あっという間に読了したのでした。たしか大分空港から成田空港までの1時間半ほどで半分は余裕で読んでいたように思う。

 

 僕もこれまで自分の研究のために、三度の聞き取り調査を行いました。

 大分県別府市NPO法人猪の瀬戸湿原保全の会」で活動されている方や、高知県黒潮町NPO法人「砂浜美術館」でホエールウォッチング業をされている方、佐賀県玄海地区で漁村の活性化を目指すNPO法人「浜‐街交流ネット」の方を対象にお話をうかがい、またインターン生として、新潟県上越市NPO法人「かみえちご山里ファン倶楽部」にもお邪魔させていただきました。

 そして思い出せば、その中で微かに、そして僅かに、岸さんのいう「断片的なもの」がポロッと顔を覗かせるときがありました。あったのです。そして僕自身、こんなことを思っていたことも思い出したのです。「よくもまあ、こんなところで僕たちの人生は交錯しましたね」と。おそらくそのような経験が、僕をこの本に引き込ませたのかもしれません。

 

 私には幼稚園ぐらいのときに奇妙な癖があった。路上に転がっている無数の小石のうち、どれでもいいから適当にひとつ拾い上げて、何十分かうっとりとそれを眺めていたのだ。広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでも震えるほど感動していた。

 統計データを使ったり歴史的資料を漁ったり、社会学の理論的な枠組みから分析をおこなったりと、そういうことが私の仕事なのだが、本当に好きなものは、分析できないもの、ただそこにあるもの、日晒しになって忘れ去られているものである(p.6)

 

 今読んでいる文献は、アクセル・ホネットの『承認をめぐる闘争』というものです。フランクフルト学派における批判理論の第三世代の著作ですね。読んでいてとても面白いというか、飽きないというか。しかしどうやら誰もページをめくった形跡がないのです。大学図書館には4年前から収蔵されているようですが、このかたい背表紙と格闘して、ページをおさえながら読んでいるのは、どうやら僕が初めてのようで。こういう本との出会いに際して、とても僕は心が躍るのです。「よし俺が徹底的に読んでやる」と、俄然やる気が湧いてくるのです。

 「こういう文献ないかな、、、」と書架の間を歩きまわり、そして見つけた本においてまさにドンピシャのことを、遥か彼方のドイツの学者が論じていることに気がついたとき、このどこまでも些細で無意味な邂逅に、僕も少なからず感動せずにはいられません。そしてそんなことがおそらく幾度となく繰り返され、そしてこれからもそうであろう図書館や書店という、あの静かに結節点を紡ぎつづける空間を、僕はとても気に入っているのです。

 手を伸ばせば、そこには古今東西の人々の断片的な語りとしての本が、そこにはあるのです。本を読むことは、人との出会いでもあるのだと僕は思います。

 

(前略)世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。

 私はこれらの厖大な語りを、民衆の文学だとか、真の大衆文化だと言って称揚したいのではない。そういう金持ちの遊びは「屋根裏/アチック」でやっていればよい。ただ、人びとの断片的な人生の、顔文字や絵文字を多用した、断片的な語りがあるだけである。文化的価値観を転倒させてそこに芸術的価値を見出すことはできない。

 そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に膨大なこの素晴らしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが徹底的に無意味であることによって可能になっているのである。(pp.38-39)

 

 図書館や書店に加えて、僕は路線バスや電車に乗るのが好きです。青春18切符で、別府から東京まで三度も帰省したのも、おそらく電車に乗るのが好きだからでしょう。全くの他人同士が、席を隣にしたり、向かい合っていたり、席を譲り合ったり。それぞれの人生が、ただの手段として利用されるに過ぎないその乗り物の中で結節しているさまを、ぼーんやりと眺めるのが好きなのです。それが電車や路線バスの好きなところなのだと思う(高速バスや新幹線、飛行機はちょっと違います。その中で人が動かなすぎるというか、そんな感じがします)。

 

 そしてたまには、ついつい、このような写真を撮ります。誰を撮るでも、何を撮るでもない、その空気というのか時間というのか、そういうものを収めたくなるのです。上が別府の路線バス、中がロンドンのチューブ(地下鉄)、下が愛媛県松山の路面電車です。

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 ある人が途中で乗り、そしてそこでは別の人が降りていき、そこにあったかもしれない些細な交錯はもはやありえないということに思いを馳せていくと、いや、何だか人生におけるいかなる出来事も、良い悪いの次元を超えていくように思えるのです。ニヒリズムは受動的な方向へ流れていかず、そして全てを肯定したくなってくるのです。

 

 だからバイト先の塾も好きです。大学も好きです。そこでの偶然の交錯を「運命」と呼んで万歳するのではなく、あくまでも「無意味で断片的なもの」の融け合いとしてとらえて、それを受け止めたくなる。受け止めて終わりです。

 

 それをどうするでもない。ただそのままに。そして流れていく。

 

 

 そこに心地よさを感じるのです。

 

 

 

 春の訪れに、本を片手に旅に出る。<人>を読み、人と話す。

 

 

 

 

 一日でも良いので、そんな時間を春休みのあいだに過ごしたいなあと思っています。

 四回生になる前に、あの一か月がまた始まる前に、なんとか。