the INGLENOOK

炉辺を囲むように。

018:最近の目標は「生活能力をつけること」です

0. はじめに

 お久しぶりです。

 最近観ているアニメは『攻殻機動隊S.A.C. 1』『ダイヤのA』『ハイキュー』『亜人』『昭和元禄落語心中』『スターウォーズ反乱者たち』『僕だけがいない街』、ドラマは『相棒14』『家族ノカタチ』『真田丸』(原作が好きでドラマ化が楽しみなのは3月からの『精霊の守り人』)、漫画は『メジャー2nd』、小説は『百年法』が滞っている状態(何かの海外小説を原書で読みたい。攻殻に出てきた『The Cather in the Rye』にしようかなぁとか考えている)、映画は『白鯨との戦い』『海街diary』『イニシエーション・ラブ』といったラインナップです。近々、『3 idiots』と『Odyssey』を観る予定です。そういえば『インターステラ―』を観返したいなぁとボンヤリと考えている。

 あと最近は、ボルダリングを二度ほどしました。室内ロッククライミング的な感じですかね。身体を動かすのはやはり楽しいです。U23がアジア優勝したからサッカーも久しぶりにしたいし、メジャー読んだから久しぶりにキャッチボールもしたいし、ついでに何処か山登りもしたい気分です。

 

 今回のブログは、えっと好きなように書いたはずなのですが、最終的には何かそれはそれでまとまりがつきました笑。ボランティアについて最近考えたこと、「言葉の牢獄」と「切実さ」についてのこと、シーシェパードがイルカを美しいと思い、僕がユキヒョウを美しいと思うことの関連についてのこと、三次元アリについてのこと、勉強する理由についてのこと。そういった感じです。

 あ、最近の目標はタイトルのとおりですが、でもそれについては一切書きません。悪しからず。というかバラバラと書いていったから、タイトルらしいタイトルが決まらなかったのです。笑

 

1. 利他の根っこには利己?

 藪から棒だが、「ボランティア活動は難しい」とかねてから思ってきた。というのも、「純粋に他者/社会のためにそれを行うのならば、なぜその最終的な部分で『良い経験だった。視野が広がった。成長できた』と自己言及してしまうのだろうか」という疑問を、ボランティアの意義を語る人々に対して感じていたからである。それに関わる全ての人に対する不信感がある訳ではない。しかし、ボランティアと聞くとそういう違和感も同時に連想されていたことは否めない。

 もうすこし詳しく説明すると、例えば「大学に入ったからには経験を積みたい」とか、「視野を広げたい」とか、「成長したい」とか、何故そんな「個人的な事情」を挟むのだろうか、という疑問がある。それのどこがボランティアなのか、と。その活動を通して見返りを得ることを期待しているとしたら、それはむしろ「自分のために他者を踏み台にしている行為」なのではないか、と。

 そういう風に考えたとき、僕はそのようなサークルに入ることはできなかった。仮に入って活動していったとしても、「自分のしていることは良いことだ」と胸を張って正当化できないように考えたからである。だからこそ、そのような活動を実際にしている人が、どのように自身の活動を「意義あるもの」として解釈するのか、非常に興味があるし、先述のような僕の考え方が間違いならば、きちっと分かるようにと説明して欲しい。皮肉とか嫌味とか抜きで、そのように常々思っていた。

 

2. 逃げ口上としての「行ってみて」

 そして、ちょうど先日、その疑問に対する回答を得られるかもしれない機会があった。しかし結論から述べると、その期待は見事に裏切られたのである。というのも、海外に行って家を建てるサークルの方が、僕が抱えていたのと同様の意図の質問に対して「そのように思うのならば、ぜひ一度行ってみて、自分の目で見てみて下さい」と回答したのだ。改めてドン引きした。

 言語化が難しいのは分かる。僕自身もそこは理解できる。だからこそ難しいのならば、素直にそれを認めてほしいし、葛藤の真っただ中にあって整理がついていないのならば、それを率直に語ってほしかった。でも、まるで「名言キタ!」みたいなドヤ顔を浮かべながらの発言であった。がっかりである。

 そもそも、その地域で家をわざわざ建てにいかなければならない事情を生み出したのには、高度な資本主義社会の発達と、その象徴としてのグローバリゼーションがあるはずだろう。そのような意味においては、ボランティアに行っていない僕も当事者なのである。だとしたら、その活動の中で見聞きしたことを、その事実を知らない僕みたいな人間にも、きちんと言葉にして伝えること、あるいはそれを試みることも、よっぽどその地域のためにもなるかもしれない意義深い活動のはずだろう。

 しかしそれを彼は怠った。だからこそ僕にとっては、自分自身の「良い経験」に留め、自己満足に浸っているように見えたのである。したがって僕の疑問に対する回答はそこで得ることはできなかった。これからも、ボランティアに行って活動する人たちにはこの手の質問を投げかけていくことになるだろう。

 

3. 「百聞」の価値とは

 そもそもそういうのを抜きにしたとしても、僕にとっては「実際に行ってみて」という言葉、換言すれば「百聞は一見に如かず」という言葉ほど無責任なものはない。だからこそ、体験型・経験重視型のプラグマティックな「アクティブラーニング」の理念にも、いまいち僕にはしっくりこない。

 百聞よりも一見が優越するとしたら、それはきちっと百聞をしたときに限られるだろうというのが僕の持論である。何ら予備知識、概念、フレームワークもないままに、実際に行って、見て、聞いて「分かる」などありえない。それで「分かる」と思っているのならば、ただの勘違いである。もっと突っ込んでいえば、APUの「アクティブラーニング」はアクティブなだけで、そこにラーニングは見えてこない。

 赤ちゃんのことを考えてみれば、彼らはこの世に生を受けて、何も知らない状態から成長をする。そこでのあらゆる物事は、「知らないことに出会う」というビビットな冒険として処理されるだろう。しかし大学生は赤ちゃんではない。「行けば分かる」という言説は、行く前に勉強をしないことの理由づけにはならない。

 また「百聞は一見に如かず」には、「百見は一考に如かず、百考は一行に如かず、百行は一果に如かず」という続きがある。「知行合一」という言葉が元来好きなので、しっくりこないわけではないのだが、また改めて考えてみたい。

 

4. 「言葉の牢獄」に囚われる

 さて、アカデミック・キャンプの意義のひとつは、その百聞にあると解釈することができるだろう。文献からのインプットのしかた、言語化としてのアウトプットのしかた、という意味での「考え方」の修得を目指す訳だが、その意図としては、いずれ自分自身の「これを勉強したい」という出会いに際して、それが役立つことを期待して、入学したてホヤホヤの新入生を対象に、約一か月間集中的に活動をする。

 しかし頭でっかちになってはいけない。身体性も、感性も、抜きにしてしまってはいけない。理性的に考えたら、上に述べたように、ボランティア活動は正当化されないかもしれない。でも感性に従えば、正当化されるのかもしれない。だとしたら、僕は未だに理詰めで生きているに過ぎない。もし僕が現代社会を考察する上で「感性で生きている人間」を自分勝手に捨象しているとしたら、それでは未だ駄目だ。ゼミの先生にも言われる。

「つかごんの文章は本当に明快で分かりやすい。でも、だからこそ『言葉の牢獄』に囚われている感じがする。そこに収まらないエネルギーがもっと欲しい。それは研究に限らず、日常の生活にも活きてくる」

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5. 「脱獄」への駆動

 「言葉の牢獄」の繋がりでいうと、ゼミに入って研究をしていく中で考えるようになった、「自分の研究テーマに対する切実さ」についても触れねばならないだろう。

 日々生活を送り、ニュースを見て、勉強をしていく中で、僕はサムシング・モヤモヤ(something moyamoya)に遭遇することがある。そして、いつもどおり考える。その感情や、何に対するモヤモヤなのかを言語化していこうとする。その結果がこのブログの記事であったり、溜まっていく下書きの数々である。言語化できるものもあれば、できないで放り出すものもある。先日悟ったのは、ささっと言語化できないのにそのモヤモヤをずっと抱えているものにこそ、僕にとって切実な問題意識が潜んでいるのではないかということである。

 ゼミに入っているから、アカキャンをやるから、大学生だから勉強をするのではない。どこにいようとも「自分だからこそ、これを問うのだ。問わねばならぬのだ」という、そういう姿勢に至る必要がある。大学院に進学するのならば尚更だ。

 自分自身が紡いでいく言葉で鉄格子を組み上げていっているとしたら、その言葉に表すことが出来ない部分にこそ、その牢獄から打破するような、鉄格子ができる前に自分の内側から湧き出てくるエネルギーによって駆動することのできる、何かそういう余地があるのではないだろうか、と。そのように悟ったのである。

 

6. モヤモヤの内奥に「切実さ」が

 この一年間、ゼミにおいては「環境倫理学」「動物倫理学」「身体論」「文化人類学」「環境社会学」といった切り口から、湿原保全のあり方や捕鯨問題や農山村での伝統芸能の価値について、色々と考察してきた。

 捕鯨問題に関しては、APUに入学する前から、そのモヤモヤを抱えていた。僕自身、13年以上通った英会話教室で、その最後の3年間を担当して下さったオーストラリア人講師と、一度「捕鯨」について話したことがある。僕が「その土地の文化だと現地の人が言っているのだから、そこに干渉するのはおかしいと思う。尊重するべきだ」と言ったのに対して、彼はあくまでも冷静に「もちろんシーシェパードとかの過激なやり方には賛同しかねるけど、でもね、『文化だから』と言われると対話をシャットアウトされている感じがしてね、それには違和感があるんだ」と返答した。大きな衝撃であった。「これは一筋縄では解決しないぞ」と、そのとき直観的に思ったのである。

 そして様々に紆余曲折をしながら、この一年間、僕は僕自身のモヤモヤを因数分解しようと試みてきたわけだが、まずは国際法的な角度からの捕鯨問題(国際司法裁判所ICJでのJARPAIIに対する判決)には一切興味がないことが分かった。そして、あくまでも「どうして相容れないのだろう」という素朴な問いから、その対立構造の全容把握と、その上での合意形成の政治哲学に関心があるのだということに自覚的になったのである。そしてひいては、「人間とは何か。そして自己と他者(「外国人」「自然」)を規定する境界線と共に生きる『我々』は、一体どのようにこの現代社会を構想するべきなのだろうか」という問いへと繋がっていく。そこへ行きついたことは、決してこの大学で3年間学んだことと無縁ではない。

 「何か、そういうことを問うている俺ってカッコよくない?」的なナルシシズムによるものではなく、ただただ自分の中にあるモヤモヤを掻き分け掻き分け、その内奥に措定した核の部分をようやく見定めつつある。そして本番はこれからだ。あと一年、その核のその先を、卒業論文をとおして明らかにしていくこととなる。

 

7. 「ユキヒョウは美しい」けれど…

 ところで、ユキヒョウという動物がいる。ユーラシア大陸中央部の高山地帯に生息する、ネコ科の哺乳類である。それがとても美しい。2年前くらいからお気に入りで、先日NHKの「ダーウィンが来た」での特集も拝見した。

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 ユキヒョウ絶滅危惧種であるという。しかし密猟も絶えない。したがって滑稽な話だが、このことに関して言えば、「クジラが美しいから守りたい」と声高に主張する彼らの気持ちが少しは理解できる気がする。しかし自分で他人にそれを言ってみて、やはりいまいち説得力に欠けることに気づく。

 第一、WWF(世界野生動物基金)とかも、その活動展開の上で啓発活動を行ったり動画を作成して、支援者を募っているようだが、その方法が「乱獲を駆り立てたロジック」の反転に過ぎない(ように見えるのである)。「かつてその毛皮が、角が、牙が美しいとされて乱獲されて、絶滅の危機に瀕している野生動物たちを守りましょう」というキャンペーンのはずなのに、それを訴える手法がやはりその動物たちの美しさ、格好良さ、優雅さのアピールに過ぎないのである。それはやはり、「かつて宝の山だと思って植民地化した地域が、今でも貧しく発展途上だからという理由で、そしてそこでは新たなプロジェクト/ビジネスが展開可能だ(=宝の山だ)」というロジックで、ボランティアをしたり、市場拡大を図っていることと何ら変わりがないようにも見える。植民地主義帝国主義の焼き増し」であるように、「乱獲と保護」の根っこが一緒ではないか、と。

 きっと何にもしてないでボーっと「大学生になったからには何かしなくちゃなあ」と思っていただけだとしたら、ユキヒョウが好きとなった瞬間にWWFへの礼賛が止まらなかったのかもしれない。だからこそ勉強するということは、自分自身の価値基準に対して自覚的になること(=自己相対化)へと繋がっていくのである。自分や他者が見ている世界を絶対視することなく、「ちょっと待てよ、本質はそこなのかい?」と一石を投じることへと繋がっていく、その手段となるのである。

 

8. 「三次元アリ」への憧れ

 そんな風にボランティアについて「あーだこーだ」と能書きを垂れている訳だけれども、その一方で僕にはそのような活動を展開している方々に対する一定の尊敬の念があるということは断わっておこうと思う。

 まず僕は先述のように、理詰めが先行する人間(=面倒臭い人間)なので、先生のいうような「牢獄に囚われないようなエネルギー」で以て、ドバーッと行動できる人間がまず羨ましいと思っている。だからこそ、「足を動かすだけではなく、同じだけ頭も動かしてほしいのだ」と、そのように羨望と嫉妬が渦巻きつつの苦言がこうしてドバドバ出てくるわけである。

 ところで『宇宙兄弟』という漫画がある。アニメ化・映画化もされている。僕はアニメ版を確か二度は観たと思う。というのも、この作品は僕の浪人生活と共にあったのである。日曜日は予備校がないし、早起きするのが面倒くさい。しかしこれは日曜朝の放送であったし、父も母も弟も好んで観ていたので、どうにかして起きることができたのである。宇宙兄弟さまさまである。ちなみに平日にその役割を果たしたのは、NHK朝ドラの『梅ちゃん先生』だった。

 『宇宙兄弟』に主人公の南波六太(なんば・むった)が、JAXA宇宙飛行士採用試験における閉鎖環境下で、「三次元アリ」について発言するシーンがある(その具体的なその経緯については長くなるので省略したい)。ともかく僕は、自分が自明視している世界に対して、「そこは二次元空間だよ」と声をかけてくれるような存在としての、三次元空間から世界を見ている宇宙飛行士にものすごく憧れを抱いている。だからこそ先日帰還した油井亀美也さんのTwitterは、非常に興味深く拝見させてもらい、そして何度かRetweetをした。

 そういう意味において、先日のボランティア団体さんの「まずは行って、自分で見てきてください」という言葉はある側面から見れば、一つの真理なのであろう。しかしやはり改めて思うのである。「それをあなたの目線で以て言語化して伝えるのが、あなたの使命でしょう」と。「僕はそちら側に行くことはできないのであって、あなたはお金と時間と労力を投げ打って現地で活動したならば、ひとつの三次元アリ的視点を持ち得るのであって、ではその視点を我々に語らずして一体何が社会のためだ、世界のためだ」と。そう言いたくなるのである。

 そう言いたくなるのは、やはり僕自身の勉強に対するモチベーションが、その部分にあるからなのだろう。僕は「三次元アリ」になりたいのだ。別に人の上に立ちたいとか、高みから下を見下ろしたいとか、そういうことではなくて、「もっとこの世界のことを理解したい。そしてより良いものを構想したい」という、そういう思いの発露としての三次元アリへの憧れなのだ。

 

9. おわりに

 「なぜ勉強をするのだろう」と、学習塾で中高生を教えていて強く思います。ときに彼らに勉強の大切さを語らねばならないのにも関わらず、そして僕の一言が彼らの人生にも影響を与えるかもしれないのにも関わらず、その回答を自分自身が持ち合わせていないとしたら。。。そう考えていくと、持ち合わせるというよりも常に考え続けなければならないよなぁ、と感じる日々です。

 また、自分自身が大学院進学を念頭に置きながら卒業論文に向き合い、そして学内ではゼミナール連合(仮)や、来年度のアカデミックキャンプにも関わっていく中で、ますますその部分を研ぎ澄ませていかざるを得ないでしょう。

 「勉強する意味が分からない?じゃあ一度真剣にやってみてください」という無責任な発言をするのではなく、自分なりの回答とそれを相手に納得させる伝え方を、脳味噌と全身と感性の全部を駆使して探っていくような、そういう一年間にしていきたい。という遅ればせながら、2016年の抱負でした。

 

以上