the INGLENOOK

炉辺を囲むように。

017:【仮説】「リア充」という言葉は「社会に対する不安の発露」である

 先日友人の家で鍋を囲んだときのこと、「リア充」という言葉についての議論になった。それに最近何となく「書きたいなぁ」とほわほわしている内容(「現代社会って何だろうな~」っていう漠然とした問い)の取っ掛かりとして、この辺りを皮切りにするのがおもしろいかなぁと思ったので、ちょっとこの点から書いてみることにする。

 まず周囲での「リア充」の使われ方を思い出してみると、①AさんのことをBさんがリア充としてラベリングしている、もしくは②Aさんがリア充であることを自称する、この2パターンに分かれるように思う。まあそりゃそうだ。それがAさんの属性的なものやその状態を表現している以上、他称/自称のどちらかしかないだろう。

f:id:ytsukagon:20151227024133p:plain

 

序論:

なぜ「リア充」が一般に浸透したか

 一応確認しておくと、おそらく①が当初の用法(本来の用法とは書かないでおく)なのではないかと考えられる。もともとは2ちゃんねるでの「リアル(現実の世界)が充実している人やその状態」を指す意味でのスラングだったからだ。2ちゃんねるのユーザーは「ネット空間=非リアル」、「現実の世界=リアル」という認識のもとに、リアルで生きる人々の一部を、「リア充」として切り取ったのである。

 しかしながら面白いことに、この「リア充」という言葉は、2ちゃんねるの世界、すなわち「非リアルな世界」から滲み出してきて、今ではリアルな世界の若者を中心に、今やごく当たり前のように使われている。例えば、恋人のいる人のことを揶揄するかたちで、もしくはいないことを自虐するような具合である。

 例えば先日、大分駅前の東急ハンズの文具コーナーに行ったときのことである。ペンの試し書きができる紙の上に、複数人の筆跡で「リア充」「リア充」「リア充リア充爆発しろ」(参考:皆のリア充への恨みが理不尽すぎるwwww - NAVER まとめ)とカラフルな蛍光ペンで書かれているのを、僕は彼女と一緒に目撃した。ちなみにその蛍光ペンとはいわゆるコピックで、漫画やイラストを描く画材なのだが、そのとき即座に「コピック=オタク=非リア=リア充憎悪」的な変換が起ったのだけれども、「それは流石に偏見が過ぎるやろ」ってことで封印した(けど書いたら意味ない)。さて僕は「爆発しろ!」と書かれていたのにも関わらず、クスリと笑ってしまった。それはおそらく僕がその言葉の意味するところを了解しているからだろうし、またそれを書いた人たちも、その言葉づかい自体が攻撃的であってもその意味内容がそこからズレて了解されていることを知っていて書いている。

 このようにその言葉のシニフィエ(意味内容)の了解がある程度なされている時点で、その言葉には2ちゃんねるユーザーの範囲に限らず、「日本の若者がこの社会に対して総体的に何かをぼんやりと感じ取っているからこそ、このネット用語に敏感に反応している」ということになりはしないだろうか。すなわち、一見何だか近寄りがたい「ネットの世界の住人」だけではなく、ごく普通に私たちがこの言葉を使っているということそれ自体から、何かモノが言えないかと思ってしまったのである。ちなみにこれから述べることには何ら根拠がないということを断わっておく。論文でもレポートでもないし、あくまでも僕個人が頭の中で手前勝手に考えたことの中から、良識の範囲内で書き連ねているだけであるということを、一応付け加えておく。まあそれこそがブログの良さよね。

 まずはシンプルに結論(というか個人的な見解)から述べさせてもらうと、このリア充という言葉が一般の人々と社会にとっても親和的であった理由としては、「みんな自由に、好きに生きていいんだよ」という言説に対する違和感、そしてその正体としての「不安」が世代として共通しているからではないだろうか、と考えた。

 

本論1:

グローバル、多様性という語の氾濫

 今日、社会的なステータスは以前ほどのパワーを持たない。それこそ男性が「良い高校・大学に進学し、良い会社に入って、妻を迎えて、子宝に恵まれる」こととか、女性が「そんな良い男の家に入り、子育てに奮闘する」ことだけが幸せのカタチではなくなっている。男女といった性のあり方も、家族のあり方も、仕事のあり方も多岐に渡るようになってきた。もちろんその全てに市民権が与えられている訳ではない。しかし少なくとも「当たり前だと思ってきた物事について議論をする」という段階に至っているものがある。物議を醸すようになっているものもある。それらがどんどん出てくるにあたって、「(僕にとっての)旧来の社会的ステータス」の地盤は揺らぎ、その自明性の檻から脱却しようと社会が進行しているのは確かである。

 というよりもその進行自体は、ずーっと世の中においてこれまでもなされてきていて、その都度その都度、価値基準のマイナーチェンジが繰り替えされている。それに普段は気が付いていないだけで、確実に社会は日に日に変化している(社会学的には、この「変化」を進化とか発展とか、そういう言葉で捉えてはいけない)。もちろんその度合いの大きなチェンジを強いた契機が(というかその衝撃の大きさゆえに自覚的にならざるをえなかった契機が)、戦争や高度成長やバブル崩壊や震災であったことは言うまでもない。ともあれ社会ではその都度、新たな社会的正しさとか、そういうものが作られては作られ、更新を繰り返してきた。

 さて、では今の時代において何がもてはやされているかを個人的に考えてみると、「グローバル」と「多様性」というタームが浮上してきた(まあ大学が大学なだけに仕方がない)。今日のグローバルを礼賛する傾向には、たとえば新自由主義的な考え方が根底にあるように思う。まずここから考えてみる。その昔、村の中や国の中で商売をするのではなく、海の向こうに市場を求めてみた。植民地というものを作り、関税をかけて自国の商品を守ったはいいものの、それにもとづく覇権争いから二度の世界大戦が起き、そして二十年前にようやく冷戦も終結。そんな「世界はヒトツになった」認識から、世界中どこへでも活躍できる会社と、そこで戦える人材を求めるようになった。しかしそれは、「そうしなければ勝てない世の中」になってしまったことの裏返しでもある。かつての局所的な植民地に代り、全世界を市場にしなければ勝てなくなった。だからそこでは画一化が進む。同一のルールを敷こうという動きに拍車がかかる。民主化が良い」とされるのも、「TPPが良い」とされるのも、そういう普遍的な価値基準を尺度とすることに対する違和感の無さ故なのかもしれない。あったとしても「秩序をもたらす必要悪」程度のものだろう。そこでその必要悪の反動として、多様性という概念が際立つ。元来物事は多様で、というか交じりようがなかったのにもかかわらず、ひとところに集められて、ひとつの世界の上で語られるがために、そこで改めて「多様性」を自覚するようになった。APUのマルチカルチュラル・ウィークが他の文化との違う部分ばかりを強調するのはそのせいだろう。クール・ジャパンとか、そういった固有性を売りにして画一性の中で戦ったのもそうだ。そしてその流れと並行して、前述したような「それまでの『変な人たち』」が、「いわゆるマイノリティ」として、その市民権を得られるような方向性に進みつつある。すべて「多様性の名のもとに」である。

 

本論2:

輪郭の薄い、でも慢性的な「不安」

 しかし、果たして僕たち(若者)はそこに「希望」を見出しているのだろうか。いや百歩譲って、きっとこれまでの社会が抱えてきた問題に対する回答として、これらのタームはその意味での正しさをきっと持つのだと思う。思うけれども、でもそうは言っても、僕たちには(少なくとも僕には)不安しかない年金は払われないだろうし、安定した職も少なくなるかもしれない。労働人口が減って、経済は衰退し、新興国にどんどん抜かれて行っても尚、社会の上の人々は健気にJapan As Number Oneの栄光にしがみついている。経済政策がいつでも選挙の目玉になって、教育とか子育てとか社会保障とか、長期的な視野を持った話は二の次。いつでも目先の事ばかり。

 そんな不安と苛立ちの中で、僕は、それこそ原発事故の際に「やはり科学を頭ごなしに信じてはいけなかった」と反省せざるをえなかったときのように、いつか「多様性だとか、グローバルだとか、そういうのを信じてやってきたツケが回ってきた」と後悔する日が来るのではないだろうかと思っている。「あぁ、あの『ゆとり世代』で、あの九州の『グローバル大学』出身なんだ笑」と後ろ指をさされるのかもしれないとか、想像したりもする。もちろん悲観的になって楽しいわけじゃない。というかむしろそれ故に、僕は考えなくては!勉強しなくては!と思えてくる。それは前向きな原動力だ(だから「それで楽しいの?」とか思ってもらわなくても良い)。

 それだからこそ、僕たち若者は「自由にすればいいよ」とか、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」とか、そういう言葉に対して、いい加減な無責任さを感じ取っているんじゃないだろうか。「自由にひとりで思うようにやってったって、現実問題、世の中甘くないじゃんか」といった感じで、頭の中でいつも保険をかけている。出世願望が無いとか、今のままで幸せと回答する若者の傾向には、このような不安が背景にあるのではないか。実際、そのような意味で「さとり世代」という新たな造語も使われている印象がある。そしてそれとは逆行する形で、「経験を積んで人材として成長する」とか、そういった方向性での熱量も生まれている。「意識高い系(笑)」として揶揄される人々の根源にもまた、漠然とした不安があるのかもしれない。「そうしていないと不安に押しつぶされる」的な強迫観念が原動力となっているのではないか。

 つまり「多様性」とか「自由に」とか「ゆとりの中でのびのびと」とかの反動として、<このままで漂っていていい/泳ぎ続けなければ死ぬ>という二極化がざっくり描けてくる(もちろんレファレンス皆無笑。誰かこの手のことについて取り扱っている本ない?笑)。

 

本論3:不安に裏打ちされたリアル(=幻想)

 そんでもって「リア充」の方に無理矢理話を戻すけれども、そんな風に世代的に共通して存在感のある不安を心の中に抱いているが故に、リア充という言葉の使用には、その不安に裏打ちされた「無意識の羨望」が透けて見えてくる。つまりそういう風な不安があるが故に、恋人がいるとか、やりたいことができているとか、友達と遊んでるとか、そういった「他人にとっては別に対してすごくもないもの」が、ものすごく価値があるように見えてくる。たとえば「別に恋人いなくても幸せだし」「あんな風に色々学生生活頑張んなくても平気だし」と言いながらも、しかしそこには「恋人いない自分」「頑張っていない自分」に対する不安があったりする。他者にとっての現実が、自分の理想として「リアル」という言葉でくくられる。ひとりで自由に生きていくことに対する、よんどころのないぼわーっとした不安を感じている。そんな人が多いのではないか。

 また東日本大震災という強烈な衝撃によって、「繋がり」とか「絆」とか、そういった温度をもった関係性に対して、更なるそこはかとない魅力を感じているかもしれない。つまり一人で自由にというより、ネット空間の匿名性や、日常での個人主義より、現実における人や社会との関係性や世界との繋がりを重視している。オタクたちのオフ会とか街コンとかも、ネット空間での「繋がり」や「出会い」に対する寂しさの現れとしての、社会へのアンチテーゼなのかもしれない。

 そんなメディアの話を今日的に語ろうとすると、やはりSNSの普及はどうでもいいことに価値づけを出来るようになったという点で影響が大きいだろう。日常の何気ないことをつぶやき、リツイートやライクが増えることで、かけがえのないものになっていくのである。別にシェアしなくても良いものなのかもしれないのに、である。でもそうしないと不安や強迫観念に押しつぶされるのかもしれない。だから例えばハッシュタグには「検索しやすい」とかそういった機能性よりも、むしろ「同じテーマを話している」という連帯感を求めていたりするかもしれない。またおまけに、そのような「良い経験でした!」「旅行楽しかったです!」といった「リア充」の投稿を見ることによって、それができていない人たち(「非リア充」)の不安の喚起とそれに伴う羨望には拍車がかかる。FacebookTwitterにおいてユーザーたちの自己顕示にいらつく人が多いのはそのせいなのかもしれない。はたまたNHKの「ドキュメント72時間」とか、そういう市井の一般の人にスポットにあてる番組が好評を博すのも、こういう空気を感じ取っているからなのかもしれない。(「かもしれない」の連呼が続いて申し訳ない。しかし全部推測の域を出ないのだから、書く以上断言は避けたい)

 

結論:「リア充」という語は「不安の発露」

 したがってまとめると、僕なりの「リア充」という言葉の定義は、「理想と現実が一致しているように思えるAさんやAさんのその状態を、Bさんのもつ不安に裏打ちされた羨望によって揶揄する言葉」となる。Aさんの現実(例えば彼女がいるとか)が、別に大して特別でもないのにも関わらず、現代社会の変化を敏感に感じ取るが故に、そういったAさんの現実社会での平凡な現実(という名のBさんの特別な理想)に対して、「あ、この人充実している」とBさんがレッテル張りするのである。もしかしたら「意識高い系(笑)」という言葉も同じようにまとめられるかもしれない。「パリピ」もそうかもしれない。「ハロウィーン批判」もそうかもしれない。結局、そうでもしてないと不安に押し潰されそうなAさんと、そのAさんの様子を見て焦ってるBさん、という対立構造なのである。でも、その感情の根底にある不安は、世代的に通底しているが故に、AとBの根っこは同じ。だから、そこから生まれた「リア充爆発しろ」とかそういった言葉に対して、Aも笑って流せる。嫌な気持ちにはならない。そのように分析できないだろうか。

 しかし例えば「国民」「民族」という概念に様々な装置によって縛りつけられている「我々」(我々と括って、措定してしまうのもその概念に縛られているから)にとって、「日本人爆発しろ」とかそういった言葉は不愉快になってしまう。たとえ自分が当事者でなくても、たとえば女性蔑視的な発言を聞くと「えぇー、それ言いますか!?」と思ってしまう。

 Bさんが「リア充」という言葉を使用する背景に、Bさんが個人的に強がっている・羨ましがっているとか別にそういうことではなくて、またAさんがそれを笑って流せるのは、Aさんの懐が広いとかBさんを見下しているが故の余裕とかでもなくて、つまりはそういう個人個人の問題ではないのではないか、というのがこの仮説の出発点である。すなわち、この語が社会的に浸透している様子を主観的に見ていると、そこには世代の中で共有された「不安」が裏返しとなって、「リアルの充実ぶりを謳歌する」様子を名付けている、という社会的な動きと捉えることができるのではないか。つまり、つまり、つまり、この言葉の浸透ひとつから、人々(とりわけ若者)が無意識に感じている日本社会に対する漠然としたでも大きな「不安」の発露だと結論付けることはできないだろうか。

 

 

 

※参考文献:皆無

※筆者略歴:20代の大学生。昨日一昨日のクリスマスを彼女と楽しく過ごした「リア充」。

 

以上で~す。何か思い付きで「リア充」である僕が独断と偏見でブワーって書ききったこの壮大でレファレンスも皆無な「仮説(仮)」に、できれば批判/検討を加えてみたいので何かあればコメント等いただけて、なんか真面目な方向に議論が深まっていったら面白いかなぁと思います~。