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FESTINA LENTE the 2nd

視野を広げるより、まず己の視点を知れ。

016:ゼロとイチの距離、ワレラとカレラの境界線

0. はじめに

 昨日一緒に昼飯を食ったときにゲルシーが言っていた言葉を借りれば、最近自分には「相当なリア充だな」という自負がある。ゼミにしろ、友人や先輩/後輩との会話にしろ、とにかく思考をぐるぐるするのが、最近では本当に楽しい。

 1、2回生の頃から楽しかったけど、その継続とか、抱えてきたモヤモヤとか、いままで勉強してきたことが、すーーーっと繋がっていく感覚があって、とにかくその知的好奇心を駆動力としている。今回はそのまとまってきたことを言葉にしてみた。

 

1. <批判>はきっと言語だ

 非難をするのは楽だけれど、<批判>は決して楽ではない。

  非難は感情に基づく。だから「自分が正しい」が前提にあり、一方通行の槍のようなものだ。<批判>は理性に基づく。だから「お前も正しくない」と諌められる不安や恐怖と共にある。そういう点で、<批判>は再帰的である。

 非難は、攻撃であり防御である。自分を守るために、矛を突き出し盾を構える。やるかやられるか、それだけである。対して<批判>は、暴露であり受容である。そこに新しい何かを生むために、自己矛盾の可能性もひっくるめて曝け出す。そして相手のそれも受け止める。だから<批判>は決して、ネガティブな行為ではない。

 

 そして、<批判>は言語だ。身体化していなければ理解ができないし、怖い。「自己否定されているんじゃないか」とか「相手を傷つけるんじゃないか」とか、びくびくしてしまう。だが繰り返す。<批判>は言語である。習得しようと努めれば、そこには対話の可能性が生まれうる。確かに可能性でしかないし、言葉に絶望することもあるだろう。でもだからこそ、豊かな言葉と強靭な思考を追求することに、やはり意味があるのではないのか。

  とことん考え、徹底的に学び、それを丁寧に言葉にすること、そしてそれをぶつけ合ってみることが大事なのはそういう訳だ。その結果として握手ができないのなら、それでもいいじゃないか。相打ちで死ぬよりもずっとましだ。

 ちなみに、別に「日本人は自己主張が苦手だから、頑張って自分の意見を言ってみよう」っていう、そんな安くて薄っぺらな話じゃないからね、言っておくけれど。

 

2. APUを念頭に置けば

 という訳だから僕は、保身のためでも、我が身可愛さ故でも、相手に対する憎しみでもなく、<批判>の応酬というかたちの対話の中に、新しい何が生まれるのではないかと、いつもわくわくどきどきしている。

 だから、なーんにも生まないような発言や、ナルシシズムの塊のようなアイデアや、偽善に無自覚な行動や、運動のための運動をそういう場面に持ち込まれたとき、もしくは本当はそうでないのかもしれないがそのように見受けられたとき、僕はまっすぐに「違う」と<批判>することにしている。つまんないよと、もっと面白くしてよと、意味ないよと、結局自己満足じゃない?と<批判>する。それにきちんと返ってこないこともあるけど。

 だから授業のプレゼンとかスライドとか、そういうものがビジュアル的に簡潔で、動物的に面白いと感じることと、僕が求めるような知的好奇心をそそるという意味での面白さというのは、峻別されなきゃいけないと思う。そういう意味でプレゼンのスキル磨きとか、今では「どうだっていい」って思う。

 畢竟最も重要だと思うのは、「あなたは一体何を考えているんですか?」って問いに対して、あなたは何を語るかだ。

 

 分かりやすい例を挙げよう。パリのテロに対するFacebookトリコロール・フィルター。これに対して、僕はすごくモヤモヤした。でもその正体がずーっと分からなかった。色々と言葉にしてみて、FacebookTwitterにも書いてみて、紆余曲折があったけど、結局「そこには思考が見えないからじゃないか」という考えに辿り着く。思考がないからではない。見えないことが問題だと思うのである。その人がどれだけ大義名分を掲げてハッシュタグをつけて祈ろうと三色を重ねようと、それによって生まれると期待されているものは、実際のところ生れていないと思った。記号に対する感情の無責任な仮託でしかないような、そんな行為でも良いと思ったのならば尚更自慰的だとして、僕は「違う」と<批判>する。

 そしてそういう思いは、とりわけAPU生に対して強いものだったということが分かった。突き詰めていくと、以下のようなものであった。

 「世界の後追いで良いのか。このキャンパスから世界を変えようと息巻いているはずのお前らが、何で誰かが作ったフィルターをボタン一つで操作することで世界と連帯した気になってんだ。その手軽さに危うさがあることを考えなきゃいけないのが今のグローバル社会なんじゃないのか。想像力を逞しくさせて彼らの死をおもい、そこに寄り添うことを選択するのならば、生きている者のせめてもの責任として、自分のそれに対するリアクションの一つひとつが何を意味しうるのかなど、様々なことにも想像力を巡らせろよ。こんな大学環境で学んでいてその体たらくか。確かにこのキャンパスは特別で、世界の80か国から人が集まっているけれども、それだけで確かに大きな価値があるわけじゃない。多様性はあるものじゃない。作るものだ。だから毎日毎週、ここで新しい何か価値を生み出そうという方向に考えないと、勉強しないといけないはずだろ。享受するだけの多様性、盲信するだけのグローバルから、良い加減に脱却しなくちゃいかんでしょう」と。

 

 という感じだが、まあこういうのを念頭に、今の僕に何ができるか。ここで何を生み出せるか。それを考えている。<批判>されたら、それに非難で返すのではなく、きちんと<批判>で向き合えるように、僕はあと残りの一年間で何をできるだろうと今ぐるぐる考えている。色々と着想はあるが、それはまた機会に。

 

3. 僕が向かい合う相手とその手段

 ニュージーランドに留学している高校からの友人は思いっきり理系で、彼とSKypeして彼の研究の話を聞くと、とても面白いと思わされる。たとえば「厳密に言うと『進化』っていうのは世代間の形質の平均値が変ってくこと(的なことを言ってた気がする。全く自信ない)であって、一個体に起こることじゃない。だからポケモンの進化は、正確には成長」って話とか。全く異分野の人間に面白いと思わせられるかどうかは、やはりきちんと考えられているかどうかに懸かっているんだろう。そういう意味で僕はまだまだだ。

 彼と話していてやはり思い知ったのは、僕には実験室はない、ということ。顕微鏡で相手の正体を突き止めたり、試薬を垂らして分析することはできない。電極付けて波形を見ることはできない。そういう対象ではないんだ、と思う。文系人間の僕が相手にできるのは、そういう世界じゃないんだ、と思う。うーんと考えて、わーっと<批判>し合って、みんなで必死になって、<答え>を探さなきゃいけないんだ、と思う。<答え>なんて無いのかもしれないけれど、でも思考停止の方がずっと嫌だ。

 

 だから<批判>という言語を身につけ、色んな人と対話しなくてはならないと思う。鍛えなくてはならないと思う。だから僕は考えるし、勉強をする。別に大学生だからじゃない。

 もちろん「<批判>ばかりで、何もお前はゼロから作っていないじゃないか」という<批判>に対する恐怖もある。それに対する負い目もある。だから、何かしらの問題意識を持ちながら行動できる人に、僕は一定の敬意を持てる。ゼロとイチの距離は、イチとヒャクのそれよりも、ずーっと大きいに違いない。しかしだからこそ、そんな人たちには<批判>をしたいんだ。そこには何かの芽となるような、そんなエネルギーにきっと充ちているはずだから。

 

4. あぶり出されてきた<?>の所在

 僕の所属する清家先生のゼミでは、社会学/人類学を基盤として、幅広い対象を扱うことができる。思想、哲学、倫理、宗教、芸術、教育、福祉、メディア。色んな人がいる。その中でも僕は一応、「環境」というカテゴリーに入っている。あんまりシックリきていないけども。

 

 このゼミを選ぶときに決め手だったのは、何よりその多様性だった。興味の対象は結構広いし、むしろ一つに決められなかった。だから大学入試の時本当に困った。そういう意味で「アジア太平洋学部」は柔軟で良かった。ともあれ、そんなだったから、ある程度方向性を定めるためのブレインストーミングも、ゼミに入った後にやったくらいだ。好きな食べ物、好きな映画・本、ありとあらゆる好きなモノ、興味あるコト、してみたいコトを羅列した。徹底してブレストして、そしてようやく浮かび上がってきた共通項が、「自然」だったのである。

 

 自然。別に地球温暖化も動物愛護も、大して興味はない。しかしそれが魅力的に映ったのだ。そしてそれを当時卒業間近の先輩に話すと「要は、自然について哲学したいって感じ?」と指摘され、環境倫理学というのを薦められたのである。そこから紆余曲折があった。捕鯨問題を扱ったときもある。なぜ農山村の伝統とは守られねばならぬのかと考えたときもある。そこから生活環境主義に飛んだ。余りにもバラバラでつまみ食いをしているなぁという実感すらあった。しかし今回のゼミナール大会のために、色々と力技で整理をしてみると、今までの一年間ゼミで扱ってきたことと、日常のAPUでの生活やニュースを見ながら考えることが、すーーっと重なっていくことに気が付いたのである。

 

 簡潔に書けば、僕のなかにある問題意識は、「<われら>と<かれら>の間にある自明の境界線を、一旦解体し、再構築するには?」というものだった。抽象的で面食らったが、スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブズよろしく、それまでの勉強を振り返ってみたとき、環境倫理も動物倫理も生活環境主義も一つの線として繋がって見えた。どれも「明らかに違うものとされているモノ同士の関係性」を考えざるを得ないテーマだったのだ。人間と自然環境の関係性、人間と動物の関係性、生活者と非生活者の関係性。その越えがたい壁をどのように越えていくのか。全部そんな感じのアプローチだった。

 研究以外でもそうだ。「健常者」と「障害者」が共に取り組めるスポーツの開発に関する記事や、義肢をつけたアスリートは「健常者」に交じってオリンピックで走るべきかの議論といった、そういう境界線にもすごく興味がある。そしてその境界線を跨ぎうるかもしれないスポーツの可能性にも。

 APUについて考えることでは、特に顕著だ。どう考えたって眼前に明らかな差異があるのにも関わらず、頑張って「同じ」と見なそうとするような方向性はおかしい。それは多様性の否定になり得る。日本人とかインドネシア人とか、そういった括りを否定せず、それとも共存しながら、そういう意味で多様性を担保しながら、しかしその中にどういう普遍性を創出することができるか。その前提としての対話可能性はあるのか。

 多様性の肯定をするはずの文化相対主義を拡大解釈しようと思えば、「奴らには奴らのロジックがあるのだ」とISISを肯定することすらできてしまう。あんな発言をしたトランプみたいにぶっ飛んだ大統領候補者が、未だに共和党支持層から大きく支持を集めている。これらはグローバル社会における、紛れもない事実なのである。だから「目には目を」で空爆をしたり、彼を英入国禁止にしたりっていう手段を講じているようじゃ、まだまだ同じ穴の狢じゃないのかと思う。でも現実問題としてどうにかせにゃならんのも分かる。だからこそ考えねばならない。

 具体的に、このブログの文脈で言えば、多様性が良いことばかりでないことも、やはりきちんと見つめないといけない。難民が苦しんでいることが事実なら、難民の大量の流入で生活に不安を覚える人がいるのもまた事実なのである。かつて科学技術の発展は世の中の希望だった。それで世界は幸せになれると信じた。でも違うと、諸刃の剣なのだと気が付いた。同じことが多様性にも言える。したがって「多様性は一元的に良いのか」と、僕たちはむしろこの大学において常に問い続けねばならない。例えば、僕はそのように考えている。

 

 

 まあこんな感じである。これで「僕がリア充だ」ということは伝わっただろうか。<批判>することのジレンマはあるけれども、そのジレンマから逃げずに、むしろそれを自覚しながら考え続けること、言葉にし続けること、すなわち<勉強>をすること、それが今楽しくてたまらないのである。

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追:『宇宙兄弟』の三次元アリの話がすごく好きで、油井亀美也さんのTwitterもずっと見ていて、『下町ロケット』もロマンがあって、『スター・ウォーズ』もめっちゃ楽しみ。そんでもって何だかんだ宇宙飛行士が最強のグローバル人材だと思う。