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炉辺を囲むように。

028:思考は「聞く」から -ノートテイキングの重要性-

 何とも啓発的なタイトルをつけたものである。ともかく英語、社会、国語の三科目を中学生に教えていると、できる子/できない子の違いは「聞き方」に現れているように感じる。今回はそれについて述べていきたい。

 巷では「批判的思考力」とか、「コミュニケーション能力」とか、「プレゼンテーション能力」とか、そういったところに注目が行きがちであるし、もちろんどのような人間を育んでいくか、を追究/追求する上では必要なことだと思う。だから、「アクティブ・ラーニング」が義務教育の現場で注目されているのもある種の必然である。しかしそれらは、幾分高次の能力ではないだろうか。言い換えれば、「それらの“横文字系能力”を獲得する準備がある人」以外の人にとってはハードルが高過ぎるのではないか、ということを少し言いたい。それ以前に軽視するべきでない能力があるのではないか、と。

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 今だから言えることだが、小中(高)までで求められる「勉強」とは、「暗記することだけ」ではない。中学時代は、一週間前からテスト勉強(例:ノートまとめ)をすれば、5教科(もしくは9教科)の全てで90点以上を取ることはそう難しくなかったし、逆に言えば同級生たちに対して「なぜできないのか」と、本気で思っていた。なぜなら、僕が時間を割いて準備をしたように、いわゆる「できない人」も同じことをすればできるようになるはずだと信じていたからである。

 しかし、大学で「アクティブ・ラーニング」なる流行りものとそれに戯れる学生たちと関わり、またアルバイトで10歳年下の子どもたちに勉強を教えていくうちに、「そうではない」ということを身を以て実感することになる。

 日本の大学で獲得することを求められる能力とは、ざっくり言ってしまえば「適切な再構築とそのアウトプットをする能力」である。つまり、「既存のものの隙間や蓄積の中に新しいものを見出し、生み出す能力」である。それは、本格的な学問の分野でも(=大学院進学をしても)、あるいはビジネスの分野でも(=就職をしても)求められる能力であるはずだ。しかしながら、アウトプットする能力とは、暗黙のうちに「インプットする能力」を前提としている。僕が、それらのアウトプット・スキルが高次である、と先に述べた理由はその点にある。

 考え方や視点によっては、ここから「ではその高次の能力をどう獲得するか、どう生かすか」という視点で議論することもできるし、それも必要だろう。しかしそれでは、まるで大学生になれば(=大学でのプログラムを経れば)それらの能力は自ずから身に着くようになる、と自明視しているようで、やはりどうにも気持ちが悪い。つまり、かつての僕が「できる子」の立場から「こうすればできるようになるはずでしょ?」と悪気なく信じていたのと同様の態度を取るのは、できれば斥けたいのである。

 

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 そこで、僕がより基礎的だと思っている「聞く」ということへの着目をしたい。今の年齢となっては、「聞く」「読む」といったインプット的行為と「話す」「書く」といったアウトプット的行為を、「考える」という行為がまるでハブの様に中核的に繋いでいるのは実感として分かるし、それぞれは決して切り離すことはできない。つまり、以下のイメージである。

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 つまり、これらの四技能を複合的に司る行為として、「考える」という行為を位置づけているのである。だからこそ「考える」をしっかりできるようになれば、四技能も自ずから育つのだと、信じがちなのかもしれない。たとえば、よく聞くような「いくら英語ペラペラになっても、話す中身がなければ意味がない。だから母語である日本語が大事だ」という言説も、そういった「考える」先行型の価値観に由来するのかもしれない。現に僕も、子どもたちに最初から「よく考えてね」と言ってしまったりする

 しかし自分の印象としては、「考えるって一体なんだよ」と訝しく思った経験の方が多い。あるいはそのように疑うことすらなく、「考えろ」と言われることにただ慣れてしまうばかりで、ただ教科書に線を引くこととか、板書どおりにノートを写すこととか、静かに授業を受けることとか、そういった本来「考える」ための手段であるはずの行為が、いつの間にか目的としてすり替えられ、「それこそが考えることであり、勉強することなのだ」という風にすげかわってしまっていた、という人も多いのではないだろうか。

 私が言いたいのは、①「聞く」と「考える」の関係性をまず強くしていくこと、②その手段として「読む」「書く」「話す」を副次的に身につけていくこと、この二点であり、このプロセスこそ「暗記」に並んで、小・中学校で本来身につけるべき能力ではないだろうか。つまり以下のイメージである。

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 極端なことを言えば、「考える」能力の高さは、言語運用能力の高さに比例するように思う。したがって、「考える」能力を最終的に育てていきたいのならば、言語運用能力を育てていくことがその正攻法ではないだろうか。

 日本語ネイティブの人たちは、思い返してみて欲しい。あなたたちはどのように日本語を話せるようになったか。親を始めとする周りの大人が、自分の頭上で話しているのをずーっと「聞く」過程で、次第に「話す」ようになったはずである。ノートに書いて覚えたわけでも、辞書を読んで用例を覚えたわけでもない。

 言語は、耳から育まれる。私はそう考える(だから留学し、外国語の耳を育てることは有効だ思う)。「聞く」ことによって「話す」ことができるようになったあなたは、文字を覚え、「読む」「書く」ことができるようにになる。一瞬で流れ消えていく音声を、文字という記号に留め、保存しておく術を知る。したがって、この四技能を複合的・同時進行的に使うようになった過程(=小・中学校時代)で、あなたたちは、わたしたちは「考える」能力を高めてきた。最初から「考える」ことができたわけではない。四技能を通じて言語(または語彙)を獲得する過程で、言語化という意味においての思考力は育まれてきた。

 

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 強烈に覚えている体験があって、「可能性」という言葉を初めて聞いたとき(それがいつだったのかは覚えていないけれど)、僕は「可能性ってなんだ?」と盛大に混乱し、「え、全然分からないんだけど」と困り果ててしまった記憶がある。

 デジタル大辞泉によれば「可能性」という言葉には、

  1. 物事が実現できる見込み。「成功の可能性が高い」
  2. 事実がそうである見込み。「生存している可能性もある」
  3. 潜在的な発展性。「無限の可能性を秘める」
  4. 認識論で、ある命題が論理的に矛盾を含んでいないという側面を示す様態。

という4つの意味がある(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/43858/meaning/m0u/)。4は別としても、1~3のいずれも「見込み」のことを意味している。現在においては潜在的であっても、未来においては明らかになる「見込み」があることを、可能性がある、と表現するのである。

 当初は混乱したものの、「ああ、こういう風に使うのだな」ということを経験的に学んだとき、僕は「可能性」という言葉を会話で使えるようになった。言うなれば、「可能性」という概念をマスターしたのである。

 語弊を恐れずに言えば、「可能性」という概念を知らない人間が、自らの「可能性」を考えたり、信じたりするとは思えない。「可能性」という概念は、現在の状況が未来において結実することを意味するのであるから、たとえば今日をただ必死に生きている人、つまり「未来のための今日」を生きていない人が、「自分には可能性がある」と信じて生きているだろうか。否だろう。しかし、もしかしたら「可能性」という言葉とその意味を知ったとき、「未来のために今できることをしよう」と思うようになるかもしれない。

 語彙Aを知らないということは、語彙Aが表現する物事や、世界の記述のしかたの一つとしての語彙Aそのもの、ひいては語彙Aの背景にある「考え方」の枠組み、そういったものを知らないということと等しい。言い換えれば、言葉の獲得とは、すなわち「自由」を意味する。だからこそ、言語運用能力を高めることは、すなわち「考える」能力を高めることに繋がるのだ。気合や根性によって「考える」力が付くわけではない。

 

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 だからこそ、子どもたちはある程度の忍耐強さをもって、言葉を覚えては磨き、お年寄りや外国人などの「自分」とは違う人と交流することを通して、半径1mから外の世界を知る、あるいはそういう世界への想像力を広げることが必要である。

 つまり「方程式なんか大人になったら使わないけど」などと大人の側が言って、脈を遮断してはいけないのだ。そんな大人は、義務教育で学ぶようなことすら自分の人生の肥やしにできなかった貧しい大人である。「勉強のしかた」とは、①「活かす術」そのものであり、また②その術を学ぶ手段なのだ。だからこそ、大人たちはそのような機会を子どもたちに提供する義務があるし、だからこそ保育や教育に財源を割き、人員を投入する必要が国には求められている。そして、きちんとそのことを国民は要求していかないといけない。

 さて、最初の話に戻ることにしたい。できる子/できない子の違いは「聞き方」に現れている。

 塾で教えていて気付いたこととして、「できる子」たちはこちらのことなど目もくれずに、着々とやってる。問題を解き、時々間違えてはその度に確認し、マスターしていく。反対に、「できない子」たちは、ただテキストを埋めていくために時間を過ごしている。言うなれば、「できる子は『勉強』をしている」。それに対して、「できない子は勉強している振りをして、ただ時間潰しをしている」

 できる子/できない子の違いは、点数などの「結果」以前に、やはり「過程」の段階で段違いなのである。もちろん、大人は客観的な「結果」で教育の成果を判断しがちだから、点数の取れるAさんを「できる子」だと思っていたら「隠れ-できない子」である可能性もあるし、「できない子」のBさんが「できる子」予備軍の可能性もある。そこの見極めが非常に難しいのであるが、やはり傾向として「聞き方」が異なっている。

 「できる子」は、きちんと「聞い」ている。具体的には、こちらの話の中で適切だと思う箇所を自分で判断し、メモを取っている。それが問題集であれノートであれ、「問題を解く」という機能だけではなく、自分自身が「考え」たことの軌跡を、きちんとそこに文字にして落としている。時間にして、わずか3秒。しかし、されど3秒。この3秒には「聞き方」が現れているのである。

 この「要点を掴む」という能力やその姿勢は、たとえば国語の文章を読み取るときに限らず、数学の問題を理解するとき、あるいはただ情報が羅列されているだけのように見える社会や理科の用語を覚えるときなど、様々な場面で絶大な力を発揮する。言うなれば、「聞く力」とは「要点を掴む力」である。そして「考える」能力の基礎にも、まさにこの「要点を掴む/不要点を捨て置く」という分類的な行為がある

 ノート・テイキングとは、そのような意味で、本当はすごくすごくすごーく重要な「勉強のしかた」を学ぶ方法であるはずだ。「板書を写すだけ」「言われた通りの色で教科書に線を引くだけ」の人が、僕の周りにもいっぱいいたし、今働いている塾にもいる。「板書以外の内容(=話している内容)はノートを取ってはいけない」とさえ、思っているかのような人もいる。大学には、PPTのスクリーンの写メを撮る「だけ」の人もたくさんいた。掃いて捨てるほどいた。どうして僕が「よりきちんとしたノート・テイキング」を心掛けるようになったか、その契機や経緯ははっきりとは覚えていないけれど、でもそういう「聞く」勉強、「要点を掴む」勉強、「考える」勉強に導けるかどうかで、教育の成果はだいぶ決まってくるように思う。「意志をもてば、やる気があればどうにかなる」という次元ではない子に、どうアプローチするか、そこが考え所なのだろう。

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 そういう意味では、小・中学校時代の僕はただの「点取り屋」であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。でも日本の教育現場や、その補助機関でしかない学習塾は、ひいては子どもたちまでもが、そういう子を「できる子」認定してしまう。そういう評価基準を内面化してしまう。しかし勉強の本質は、本来的な「できる」とは、そういうことではない。

 

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 この間の授業では、60分間で「縄文時代から鎌倉幕府滅亡まで」を話した。力点を置いたのは、よく言われる「歴史の流れ」である。この言葉は手垢がつき過ぎているが、端的に言えば、「〇〇時代」の切れ目が何を意味するのか、を意識しながら話した。縄文と弥生の境目として、稲作の重要性(ex. 貯蓄可能な富が権力を正当化した)を話した上で、飛鳥時代以降は、 

といった感じで話した。

 枝葉末節である各用語は、授業で全てを網羅することはできない。個々人で、塾のわずかな時間の外で、孤独に覚えてもらうしかない。しかも肝要なのは、暗記それ自体ではない。やはり「710年、大宝律令」を暗唱できたところで、それが何故重要なのかが説明できなければ意味がないのである。

 だから授業には、学習の補助線を引く、そんなつもりで臨む。「要点を掴む」姿勢は、教える立場にある者がまず身を以て体現せねば、とそんな風に考えて、今のところは試行錯誤を続けている。そんな夏期講習であった。

 

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後記

 断わっておくが、小・中学生の時期に学校で育むべき「必要な能力」の定義やそれを満たす条件に関して、この記事では何かに依拠している訳ではない。したがってここで示したような「『聞く』と『考える』の関係性を太くしていくべき」という主張も、あくまで育むべき能力のひとつとして、あるいは、一般的に求められている「学力」「思考力」「探求心」などの陰に隠れているとても重要な能力として、「聞く」というスキルが存外重要なのでは?当たり前すぎてその育み方に気づけていないのでは?、という問題提起をしているに過ぎない。議論や批判、深化のためには、エビデンスや学説等で補足するのが好ましいとは思ったが、今回は取り急ぎ「勢い」で、僕の個人的経験からただ今思っていることを、温かいうちに書きたいように書いた。以上