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炉辺を囲むように。

031:アルバイトを通じて考える「塾」のこと

0. 塾はサービス?

 塾にとっての「お客さん」とは誰か。

 例えば塾にくる理由(ニーズ)も様々だが、大事なのは「そのニーズを誰が感じているか」である。保護者と生徒は一枚岩ではない。分かりやすく言えば、お月謝を出すのは保護者だが、サービスの直接的な受益者は生徒自身である。したがって保護者はお月謝の対価を間接的に(分かりやすいところでは、定期テストの成績推移や受験の合否などの客観的指標を以て)確認せざるを得ない。したがって塾は説明責任としての「成果」を追求していくことが求められる。

 

 厄介なのはそのような「サービスの提供者とお客様」という関係性が支配的になることにより、保護者にとっての「子どもが勉強ができるようになる」ことへのイメージと、塾にとっての「生徒が勉強ができるようになる」ことへのイメージのズレが自覚されないままであった場合、生徒にとってよくない帰結(=生徒の本質的な学びがないがしろにされる)をもたらしうる、ということである。ここには市場メカニズムを超えた、あるいはそれとは別の社会関係が塾において結ばれているのではないか、という私の認識と決して無関係ではない。

 

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1. 教育の目的

 そもそも「勉強を教える」とは何か。「教える」ではない。目的語としての「勉強」を伴うような、そんな「勉強を教える」とは一体どういう営みか。

 

 私はそれを、表面的に「勉強の内容を生徒にできるようにさせる」ことに限らず、メタ的に「勉強の仕方、勉強への向き合い方、ひいては勉強の意義や人生観までもひっくり返して提示してみせる」ことまでをも包含するものとして見なしている。

 つまりサービス業としての塾の側面は認めつつも、一概に「成績とお金を交換するマーケット」として、私は塾を(というよりは教育、学習、学びという営みを)見なしてはいないし、見なしたくはないのだ。長い目で見たときに、教科の習得はあくまで手段とし、それとは別のところに目的を設定したい。

 その目的とは、おそらく巷における「批判的思考力」「生きる力」などとの親和性が高そうだが、私の価値観において肝要なのは、あくまでも教科の着実な習得を通じて、というプロセスの部分を疎かにしたくはないという点だ。それこそ「アクティブラーニングまがい」などに堕したくはない。

 

2. 教育の手段

 そのように考えたときに難しいのは、たとえば「ノートまとめ」の位置づけである。まず私はノートまとめの意義を一定程度認めている。なぜなら実際に自分はそれで勉強に楽しく取り組めていたし、成果も伴っていた。しかし自身の成功体験を伝授するのがその生徒にとって適切かどうかわからないし、何より自身の成功体験を一般化するのさえそう容易ではない。

 だが複数の情報を再構成する能力は、ゆくゆくどのような仕事に就こうとも、あるいは身近なところでは授業にどう臨むかという姿勢の部分(例:先生の板書・発言、教科書の記述をどう整理するか)においても必ず生きてくる。学校で習うどんなことよりも、おそらく誰にとっても「将来において役に立つ」能力こそ、この「メモる・ノートを取る」能力であるに違いない。

 しかしこれにはたくさんの能力(例:複数のソースを参照し、整理し、要約し、編集する力)が要求される。だからそれを勉強の方法論としてしまったとき、それが得意な人や勘所を掴んでいる人にとっては有効(=インプットとアウトプットの往復運動として良いトレーニングになる)だろうが、苦手な人や意義を見出せない人にとっては苦行(=時間つぶしの作業)にしかならないだろう。それは結局のところ、「学校で勉強ができるか否か」の格差を塾内で再生産し、強化してしまいかねないのである。言い換えれば「やり方は教えているのだから、結果が出ないのは、君の努力不足だ」という自己責任論的な精神論を押し付けてしまいかねない。

 もちろん生徒自身が自立して勉強に励むことは結果を出す上では大前提ではあるのだけれど、誰もが最初から自立している訳ではないし、むしろできていないからこそ塾の門を叩くというケースが多い。

 誰もが自身のもつ能力を自覚し、発揮させつつ、新たな能力を身につけていくことを「成長」と定義し、それを促すことを「教育」の本分とするのならば、それが仮に将来において役立つに違いない能力を育む「ノートまとめ」という勉強方法であったとしても、そのようなある特定の手段に拘泥するのも適切ではないのだ。重要なのは指導のタイミング、またそれが効果を発揮し得るような関係性が築かれているかである。

 

3. 教育の立脚点

 つまり、ここまで「塾の目的はひとつではない」、「教育の手段も一つに拘泥してはいけない」と述べてきたけれど、結局のところ塾側が常に立ち戻るべきなのは、「生徒自身が抱えている課題が何で、そしてそれを生徒自身が自覚しているか」という一点だろう。そして、そこから始めないことには本人の成長は見込めないのだということに、三者――①金銭でつながる塾と保護者、②知でつながる塾と生徒、③家庭でつながる生徒と保護者——がどこまで認識を一致させることができるかが、とても重要であるように思う。それはコミュニケーションの多寡及びその質に大いによるに違いない。

 そしてそのあたりの共有が図れてこそ、「学校では手の届かないところ」に手を伸ばすこと――それが学校ではすくい上げられることのない初歩的なことの補習であれ、学校で高めきれない高度な応用練習であれ――のできる塾としての役割が鮮明になるというものだ。公教育の補助機関としてのニーズに応えながら、長期的な視点に立った生徒の学びに真剣に向き合おうとするならば、このように各アクターの関係性や境界線を常にひっくり返し、また書き換えながら、コミュニケーションを取り続けるという作業を避けることはできない。

 したがって私が仮に自分自身の塾を持つことになった場合、このような塾の位置付けの獲得とその認識が概念的にも事業的にも回り始めない限りにおいては、「子どもの学びを真ん中に置く」という教育の本質的理念が実現することはおそらくないと考えて、事業計画・授業計画を立てることになるだろう。